こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
先日、ABEMA TVで「TOEICは不要か?」という議論を見ました。
茂木健一郎さんが、「TOEIC満点」を何度も経験している「もりてつさん」とバチバチやり合っている(勝手に茂木さんがヒートアップしている?)動画を見ました。
僕は人生でTOEICは一度しか受けたことがなく、特に対策の勉強をしたこともありませんでした。
その魅力はあまりわからなかったですし、「もりてつさん」についても初めて知りました。
「へー。こんな人もいるんだなぁ…」
と思いつつも、なぜこんなにも茂木さんが熱くなっているのか、考えてみたくなりました。
英語の学習法や、日本で生まれ育った僕なりの英語に対する思いを、話していきたいと思います。
ペーパー試験は情報処理能力も必要
以前も英語について記事を書いたことがありました。
結論から言いますと、「ペーパー試験」による英語の試験は、
- 英語の読み書き能力やリスニング力を測るのには、不適切とは言い切れない。
- 一方で情報処理能力を測っているという側面もあわせ持つ。
と思っています。
僕が7〜8年前ほどにTOEICを初めて受けた時の印象は、「なんかセンター試験みたいだな」というものでした。
今はなき「センター試験」という名前ですが、センターの英語を教える時ほど、テクニックを伝えたことはありませんでした笑。
- 「先に第〇問から解け」
- 「文法は完璧にしろ」
- 「第3問は結構むずい」
などです笑。
こうなってきますと、確かに「コミュニケーションツールや情報媒体であるはずの英語」という本質からズレてしまい、
- 「いかに高得点を獲れるか?」
- 「いかに速く処理ができるか?」
に注目が集まってしまうことになります。
僕自身も、現役と浪人で2回のセンター英語受験を経験していますので笑、当時の処理速度は凄まじいものでした。(確か本番は30分前に解き終わりました)
当時センター試験は「80分で大問を6問解くもの」でした。
200点満点なのですが小問の配点が大きく、「1つにつき6点」もザラでした笑。
受ける側からしますと、これほどミスの許されない試験は本当にイヤなものでしたね。
今回の茂木さんの言いたいことも少なからずわかりまして、
- 「つまらない英語」
- 「情報処理能力を測っている」
- 「英語の本質ではない」
と言われてしまえば、なかなか否定はできないでしょう。
それもあってか、僕はTOEICを受けようとは思いませんでした。
コミュニケーションや知的な学習として英語を使えるかどうかという部分に焦点を当てるのであれば、ダイレクトに意味があるとは思えなかったからです。
- 「TOEICが満点でも、英語をしゃべれない人はいる」
- 「カタコト英語でも、コミュニケーションはできる」
- 「処理能力で英語能力を測ることなんて、バカげている」
と、否定的な面しか捉えていませんでした。
では、だからと言ってそれが英語学習における「害悪」となるのでしょうか。
ここが今日の大きな論点です。
ペーパー試験は要らないのか?
結論から言いますと、僕はあってもいいと思っています。
それは、茂木さんほどの熱量や危機感がないからかもしれません。
茂木さんが特に強調している部分は、
「TOEICや大学受験などのペーパー試験によって、学習者たちに波及効果が出てしまい、日本人の学習の質をおとしめている」
ということだと理解しています。
「波及効果」とは、例えば学校の英語の定期テストで「リスニングもあるよ!」とした場合、それにつられて生徒たちがリスニングを勉強する、と言ったような効果です。
仮に英検のような「面接試験」を受験で実施すれば、「みんな英会話の練習もするよね?」というような効果も同じことですね。
茂木さんのおっしゃる波及効果は「逆効果」のようなものなのでしょう。
- 会社がTOEICの点数を基準にしようとする。
- 社会がTOEICの点数によって「英語ができるかどうか」を決めている。
これらによって「生きた英語」ではなく、情報処理中心の英語学習になってしまうといった「悪影響」を生み出しているのだ、と言いたいのだと思います。
ただ、僕自身が英語話者の方々と出会ってきて感じたことは、
「全員が全員そのような姿勢で、試験のために英語を勉強しているわけではない」
という感覚です。
もちろん、それは一方で、
「点数を取るためだけに、戦略を突き詰めている人もいる」
ということも意味しています。
つまり、
- 英語の勉強のきっかけとして、センター試験やTOEICがあった人
- 英語の勉強の過程の中にTOEICや英検などの試験がある人
- 英語がめちゃめちゃできるので、適当に受けたら満点だった人
- TOEICなどの試験に受かること、高得点を獲ることを目的としている人
など、多種多様の目的で「ペーパー試験に臨んでいる人」がいて、そのおかげで英語を勉強するきっかけやモチベーションになっている人もいるのだから、僕はそれでもいいのかなと思っています。
確かに、社会全体が「TOEICを絶対的な判断基準にしてしまっている」ような風潮はよろしくありません。
しかし、
「英語の能力をざっくり知ることができる指標があればいい」
と思っている大学や企業があるのであれば、点数によって可視化するのも(都合のいいやり方かもしれませんが)、1つの指標としては悪くないとも思います。
この世界では点数化できないことばかりです。
もしそのように「能力が点数として表されるのがキライだ」という人がいるのであれば、
- 別のやり方で自分の英語の能力を発揮したり、
- 自分の「本当の英語能力」を買ってくれる場所に自分を売り込んだり、
すればいいのではないかなと思っています。
「試験の否定=全ての否定」になる可能性も…
- 「英語はコミュニケーションの手段である」
- 「もっと深くて面白い英語が存在する」
と強く思っている茂木さんだからこそ、熱くなっていたのではないかと思います。
ただ世界を見渡してみますとTOEICに限らず、ものごとをただただ点数化・数値化するなどして本来の意味から逸れているものは、山ほどあります。
なぜか僕がふと思いついたのは、「ルービックキューブ」でした笑。
6面の色をそろえる、あのオモチャですよね。
例えば僕にとって「ルービックキューブ」は、
- なんとなく手を動かすときに触ったり、
- 頭を使うための知的玩具であったり、
といった認識しかありません。
しかし例えば、
「その本来の目的は『面をそろえる速さを競うこと』ではない。パズルを解くための知的な過程が、脳の発達を促進させ…」
このような「純粋にルービックキューブを愛する人(仮)」がいるとしたら、
「なぜこんなにも『競技性を追求するおもちゃ』になってしまったのか…」
と、肩を落とすかもしれないのです笑。
ちなみに僕は、スポーツ全般にも同じような「ズレ」があると思っています。
ブレイクダンスも、よく議論の的になります。
僕みたいにブレイクダンスをこよなく愛する人間からしますと、オリンピック競技になることには疑問が残りますし、「ダンスはヒップホップ文化だろ?」と言いたくもなります笑。
他にもフィギュアスケートや体操競技の点数化もまた、疑問に思えばキリがありませんよね。
ただ、そうした「競技性」を持たせることで話題となり、競技人口が増えることで嬉しく思う人もまたいるのです。
ルービックキューブの、ブレイクダンスの、本来の意味とは一体…
果たして誰かがその意味を定義することは、できるのでしょうか。
そんな疑問を持ったのでした。
ここで「ルービックキューブやスポーツと、英語を一緒にするな!」というご意見もあるかと思いますが笑、あくまでも「思いついた一例」ですので参考程度に。
「ものごとを多角的に捉えてみると、互いに共通部分も見えてくる」と言いたかっただけです。
話を英語に戻しましょう。
言語の本来の目的は「コミュニケーションの手段や文字による情報の伝達」であり、それ以上でも以下でもありません。
しかしその「意味」を決めるのは僕らであるため、「TOEICマニア」や「試験のノウハウコレクター」がいても、別にいいのではないでしょうか。
- 「英語を話すことが好きでたまらないけど、読み書きはできなくてもいい」
- 「英語で書いてある専門書を読むために英語は必要だけど、英会話は要らない」
- 「英語のペーパー試験で高得点を獲ることが楽しいので、会話は二の次でいい」
多種多様な考え方がありますので、僕はそれらを否定することに意味はないと思っています。
それに、僕の肌感覚ですが、
- 「TOEICの点数は高いけど、しゃべれるの?」
- 「英検1級をもっているけど、何年前に獲ったものなの?」
- 「帰国子女でペラペラかもしれないけど、この専門書は読めるの?」
- 「君はネイティブだけど、その発音だと訛(なまり)が強すぎて聞き取りづらいよ」
このように、その人の英語能力をペーパー試験の点数や話せるかどうかで決めつける人は、実際のところあまりいないと思っています。(僕は単純に「すごい!」と思ってしまいますが笑)
あくまで点数や会話の流暢さは「指標」であり、
- ある程度の能力は保証されるが、
- それによって本当の能力までがわかるわけではない。
と、みんなが認識していればいいのかなと思っています。
茂木さんが教育を危惧することも理解できますが、世の中が「点数至上主義」になるほど単純だとは思えません。(学歴主義など、その気(け)はありますけどね)
ルービックキューブと同様に笑、英語の「本来の存在意義」は誰にも決めることはできませんし、時代によって変わることもあります。
テストや資格などの「ゲーム性」を楽しんでいる人もいます。
「TOEICや受験では、英語の能力が1ミリも身につかなかった…」
という人も見たことがありませんしね。
それは「英会話」に限定した話ですし。(ちなみに英単語の猛勉強が、英会話に活きることもありますよ)
特に日本で生まれ育った人(僕)にとっては、正解を見つけるには多大な労力が要ります。
- 様々な英語の学習を経て「自分はこれだ!」と思う学習法を探し出していくのもいいし、
- その過程にペーパーの試験があってもいい。
僕はそう思っています。
まとめ
- ペーパー試験は情報処理能力や処理速度の測定が必ず入る。
- 「ペーパー試験が全てだ」という世の中の風潮は良くないが、英語学習法にはいろんな形があってもよい。
- ものごとの点数化を否定するということは、世の中にある競技や点数化・数値化されたものを否定することにも繋がるので、多様性を重んじ否定しないほうが賢明だ。
あくまでこれも僕個人の意見であり、茂木さんも茂木さんなりの正義に基づいて意見を述べています。
彼のような考え方があってもいいですし、反対の意見があってもいいと思います。
ただ一英語教師として「英語の能力が高い人」を定義させていただきますと、結局「何でもできてしまう人」になってしまいますね笑。
- 「TOEICで高得点を!」
- 「生きた英語こそ本来の姿!」
- 「英語はコミュニケーションツールだろ!」
と偏った意見があっても全然構わないのですが笑、どこかの力を伸ばしたいと思っても、最終的には自然と周辺の力も必要になってくるものなのです。
現在「4技能」(LRWS)のバランスが謳われているように、1つや2つの力だけ爆発的に伸ばしている人で、「この人は英語ができるなぁ!」と思ったことは今までで一度もありませんからね笑。
みなさん、ちゃんと4技能を勉強されています。
また4技能以上に、
- コミュニケーション能力の高さ
- 非言語での伝達能力の高さ
- 詰まった時の「つなぎ」のうまさ
など、言語運用においては、「測ることのできない複雑な能力」も別にあります。
ペーパーはあくまで1つの指標ですし、そのあり方を肯定も否定もしなくていい。
それぞれが思う「理想の英語運用者」に向かって、学習をやめないことが大切です。
僕もまだまだ自分の理想になれてはいませんが、それに向かう過程もまた楽しいものです。
みなさんと頑張っていけたら嬉しいですね。
それではまた!
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