お世話になった人に感謝していく姿勢【一人で生きてきたわけでない】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

本日は母方のおばあちゃんの告別式ということで、宮城県に行きました。

それに関しては、また次の記事で書こうと思っています。

さて、いつもなら僕は一人で向かうわけですが、今回は父と一緒に向かうこととなりました。(他家族は先に到着しているため)

あまり家族のことを書いてきたことはありませんが、実は父は若年性の認知症であり、僕のことももう息子だと認識していません。

でもそんな父と朝から着替えを済ませ、父を連れて東北に向かう時間は、なんだかほんわかしていました。

今日は「お世話になった人」について書いていきます。

お世話になった人に対して感謝することは当然のことだ。大切な時間を過ごしていこう。

なんでも知っていた親父

僕の小さな頃の父のイメージは、「なんでも知っている」という博学なイメージでした。

日本人らしく毎日ニュースを見ていたため、「Aと聞けばB」とすぐに回答が返ってきたものでした。

コンピューター関係にとても強く、僕が小学生の頃、つまり世間的にはかなり早い段階でパソコンを触らせてもらっていたということになります。

おかげさまで兄貴はコンピューター関係の道に進み、僕は中高くらいでほぼタイピングに問題のない状態となっていました。

それがいつの日からか、父は漢字を読むことができなくなり、身の回りのこともできなくなっていました。

世界を回ると決めた時、実は僕は兄に相談していました。

このまま世界に行って大丈夫だろうか?

と。

すると兄は、

せいじの好きなようにしたらいいと思う。今しかないなら行って来な

と言ってくれました。

これは僕の旅の大きな目的ではなかったのですが、

「僕が世界を回って、毎日YouTubeに動画を上げたこと」

で、どうやら父はアップされるたびに僕の動画を見てくれていたようでした。

つまり僕が世界を回ることで、間接的に父に世界を見せてあげることができたということです。

結果論ではありますが、多少なりとも親孝行ができたので、僕としてはちょっと嬉しかったですね。

今はもう僕のこともあまり認識できていなくて、もう昔の面影はありません。

それでも、こうして右も左もわからない父を引っ張りながら宮城へ向かう姿は、我ながら不思議な感覚でした。

以前の父はなんでも知っていた。今はもうその面影はないが、少しだけ親孝行できているような気もする。

家族かどうかは実は関係のないこと

僕は、

  1. アメリカで兄家族にお世話になり
  2. 帰国後は実家で飯を食わせてもらっている

という、なかなかの「家族頼み野郎」なのですが、一方で「家族を家族として」強く捉えているような、欧米の感覚は実はあまりありません。

成人してからはあくまで「一個人」となり、家族を離れてそれぞれの生活をしていくのだと思っています。

なんだよ。せいじって恩知らずだな
結局血の通った人間ではないマシーンだ!この人でなし!

と罵声を浴びせられそうですが笑、あまりそうした「血縁」にこだわっていないと捉えてもらうほうがいいのかなと思っています。

日本では「毒親」「親ガチャ」という残念な言葉が流行ってしまいましたが、ある意味僕は真実だと思っていますし、もっと広く見れば「国ガチャ」だってあります。

世界を渡り歩いたことで、いかに「僕に配られたカード」がすごく運の良かったものだったのかを、まざまざと突きつけられましたしね。

僕は、

  • 感情的
  • 情熱的

になることもありますが、一方で普段から客観的(多面的)にものごとを見るようにもなってきました。

すると、

とりあえず生まれてきたからには、あとは個人でやっていくのだ

と、ざっくりと考えるようになりました。

もちろん、今まで一人で生きてきたわけではありませんし、これからも多くの人と繋がっていくのだと思っています。

ただ、血縁関係があるとしても、やはり突き詰めていけば僕は「一人の人間」でしかありません。

父もそうです。

家族だからと言って特別に何かをするという発想というよりは、もっと一般的に「お世話になった人に感謝する」という感覚を持ち合わせているのかもしれません。

ただ、何かあったら家族が助けてくれるように(あるいは助けたり)、どこか不思議な繋がりがあるというのもまた事実です。

漫画ワンピースでは、血の繋がりに関係のない海賊たちの冒険が語られており、僕もこのような「繋がり」のほうを意識しているということでしょうね。

不愉快に思ってほしくはないのですが、「家族」という仕切りを飛び越えたような、今はそんな感覚があるのです。

血縁関係も大切なことだが、僕はもっと広義的な「繋がり」を感じるようになったのだ。

今までのことに感謝をすること

とはいえやはり “家族” ですから、こうして父を連れて宮城にいくことには使命感もありました。

ただお伝えしている通り、「家族だから」という理由が強いわけではありません。

小さい頃から父にはお世話になっていたという、その気持ちのほうが強いですね。

親から虐待を受けていた
物心ついた時には見捨てられていた

といった人にとっては、「親だから」という言葉ほど意味のわからない言葉はないでしょうから。

そんな生徒たちもたくさん見てきましたし、何より世界中でそんな子どもたちも目にしてきました。

だからこそ、

  • お世話になったかどうか
  • 愛を受けてきたかどうか

のほうが、僕は大切だと思っています。

「親だから」という理由は、実はシンプルでありながらも乱暴な回答だと思っています。

そうではなくて、

親として愛を与えてくれたから

僕は感謝をしたいのです。

それぞれにはそれぞれの家族内の関係があるため、その程度は別に誰が決めるわけでもなく、本人にしかわかりません。

僕はただただ、小さい頃にいろいろと教えてくれた父には感謝していて、それは両親や祖父母、従兄弟に限った話ではありませんでした。

  • 友人だって
  • 恩師だって
  • 親友だって

血縁関係はなくても、深い関係にいる人はいます。

とにかく、お世話になった人には感謝をすること。

父を宮城に連れていくことがどうとか、そんな細かいことは何も考えていませんでした。

ただ、新幹線からずっと外の景色を眺めている父を見ていると、なんだか懐かしい気持ちになれたのは、それだけ小さかった頃の思い出があったということなのです。

その気持ちが湧いてきただけで、僕は何も面倒くさい気持ちにはなりませんでした。

いろんなことがあったけど、こんなところまで来たんだなぁ

そうしみじみと感じた、冬空の広がる宮城県。

その澄み渡った綺麗な空は、僕がずっと昔に家族で宮城に帰省していた時間を、ふと思い出させてくれました。

お世話になった人に感謝を示すことだ。それは親だからとかではなくて、自分がどう感じたかが大切なのだ。

おわりに

いろんなことをほとんど忘れてしまった父。

でもなんだか一緒に宮城に向かっている時間はとても愛おしくて、懐かしい時間となりました。

これからも恩返しができるかはわかりませんが、ただ僕が突き進んでいくことが、親孝行なのかなぁなんて思っています。

また今日も感謝して生きていきましょう。

それではまた!

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