こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
この間、神奈川県の湘南にある「江ノ島」というところに行きました。
江ノ島とは、
- 断崖絶壁で、
- 階段や坂だらけであり、
- 広くて走り回れる印象は、
- 全くと言っていいほどありません。
「待て待て、神奈川県民であるはずのすずきは、江ノ島に行ったことがないのか?」
これは大問題でしょう。それで早速行ってみることにしました。
それにしても若いカップルが多かったです。(僕への当てつけかと思いました)
江ノ島には江ノ島ホテルというサウナ付きの施設があるのですが、大浴場でしゃべる若者たちがいたのでムカッとしてしまい…
と、思うのは「以前の僕」です。
今となっては「仏のすずき」と言われほど、おしとやかになりました。
(浴場での会話は、このご時世シンプルに良くはありません)
とは言え、なぜ僕は若者にそこまで「肩入れ」するのでしょうか。
その理由をお伝えしていきます。
先生だから
まず第一に挙げられる理由は、僕が曲がりなりにも「教員」という立場にいることが大きいです。
最近読んでいる黒川祥子さんの県立!再チャレンジ高校(ノンフィクションですが、高校の名前は変更されています)では、
「生徒をまず認めてあげるところからがスタートである」
という議論が展開されます。
僕も若かりし教員時代は、先生のことをなめきった生徒と言い合いになったりしたものです。
今この本を読んでみますと、僕と全く同じような若い教員が登場し、廊下で寝転がっている生徒や問題行動を起こす生徒と対峙します。
彼が真っ向から「ふざけるな!」と食ってかかるシーンが描かれており、「最初はそうするよね…」と共感しました。
しかしそうした生徒は往々にして、
- 家庭環境が複雑であったり、
- 親の愛情を一身に受けていなかったり、
と、何かしらの事情を抱えています。
そういった背景を知っていますと、生徒対応への「入り」が柔らかくなります。
大切なことは、
- 生徒と戦うことではなく、
- 嫌われないことでもなく、
- 甘やかすことでもなく、
対話して信頼関係を築くことです。
すると生徒も徐々に心を開くようになってきます。
こういう対応を数年続けていると、若い世代の子たちが「かわいく」見えてきます。
自分の生徒たちと常日頃関わりあっていますと、すれ違ったり電車に乗っている若い子たちがまるで自分の生徒のように思えてきてしまうんですよね。
これも職業病でしょうかね笑。
真面目な大人たちからしますと、若者たちがワイワイやっているのを見ては「イキっててうざいな」「調子乗ってんじゃねーよ」と思うところがあるかもしれません。
しかし少なくとも若い頃の僕たちも、思い返せば調子にのっていたことばかりではなかったでしょうか。
僕はとても真面目でしたので、そんなことは一切したことがありません。(大嘘)
だから教員の立場の僕からしますと、彼らはかわいいものですし「いいぞ、もっと調子に乗れ」と思ってしまいます。
もちろん人様に迷惑をかけていたり不愉快な行動はNGです。(その時は僕が詰めます)
人間若い頃くらいしか、はっちゃけられません。
- オールカラオケしたり、
- 朝まで飲み明かしたり、
- 恋愛してみたり、
- みんなでワイワイしたり。
学校行事でも、生徒たちが「調子に乗ること」を大歓迎してサポートしてあげますと、生徒たちも「なんだもっと楽しんでいいんだ?」と思ってくれるようになります。
街にはびこる若者たちも「今」を生きており、それを止める権利はありません。
その存在を尊重してあげると、自然と道ゆく若者たちにエールを送れるようになってきます。
次男だから
お盆で1週間くらい休暇でダラついていますと、生徒たちの顔をしっかりと忘れます。
全集中力を総動員して思い出し始めますと、「あいつとまた絡むのは楽しいだろうな」と思い始め、ニヤニヤしてしまいます。(気持ちが悪い)
僕は兄と妹を持つ、だんご三兄弟でいうところの「自分が一番次男」でしたので、「弟」という存在に憧れを抱いていました。
今配属されている学校では、男子の比率がたまたま多かったため、最初こそ衝突が多かったものの、慣れてくるとかわいい弟たちのように思えるようになってきました。
こちらは「大の大人」ですから、感情をむき出して相対する必要はありません。
この冷静な姿勢は、普段の「若者たち観察」においても効果を発揮します。
- 楽しそうにグループで、ワイワイ歩いている若者集団もOK。
- カップルで歩いている若者も、まぁいいでしょう。(個人的にはちょっと鼻につく)
「実はこいつらいいやつらなんだよな…」って思い始めると、イヤな気持ちはなくなってきます。
江ノ島ホテルの大浴場でワイワイやっていた若い子たちも、別にそこまでうるさくて迷惑かけていたわけではなかったので、僕は横でじっと見ていました。
むしろ「今を生きるんだぞ」と思いつつ、「なんかおごってやりたいな」という妄想まで出てくる始末でした。
「全世界の年下の男子諸君は、僕の弟である」とでも言わんばかりの包容力でしたね笑。
それはひとえに、僕の「弟」という存在に対する架空の愛情なのかもしれません。
成人式を見て
毎年ニュースで取り上げられる成人式の悪いニュース。
ひと昔前の僕であれば、嫌悪感すら抱いていた「陽キャ」への嫉妬心がありました。
今となっては僕も陽キャの仲間入り(?)をしたということで、嫉妬心はどこ吹く風となりました。
「今年も盛り上がってるなー」というくらいの認識です。
特に九州(福岡?)のほうの成人式は、やんちゃな格好をしている二十歳の子たちが多いのですが、一方で中身はとてもしっかりしている子が多い印象でした。
そしてその時ふとよぎったのが「今しかできないんだぞ」という思いでした。
年を重ねてきますと、童心は忘れずにいたとしても行動にそれを反映させて、いわゆる「イキって」みたり「調子にのって」みたりする「若気の至り」ができなくなってきます。
例えば30代になった僕が、バチバチに金髪にしてきて若い子たちに負けないようにオラオラしていても、ただイタイだけですよね。
(若者以外の染髪や派手なファッションを否定しているわけではありません)
似合う人は年をとってもカッコいいのですが、大人になってきますと騒ぎたいといった「動」のエネルギーがなくなってきます。
もっと大人びて落ち着いた、「静」のエネルギーを大切にするようになってくるからです。
そうした落ち着きが似合う人は、内面も素晴らしいですからね。
ただ、若い時には若い時なりの、若い時しかない大きなエネルギーがあります。
時に道を外れてしまうかもしれませんが、心の広い大人たちがそれを受け止めてやるのも、社会の役割なのではないかと思うのです。
人生に一度の二十歳の日なんて、一生の中で一番輝ける時じゃないですか。
そんな時は、パーッと若気の至りを全面に出してしまいましょう。
中身は後々、大人になるにつれて磨かれていきますから。
おわりに
30代が言うのもまだ早いものですが、僕は若者たちのことを「宝」だと思っています。
少し大人になってしまいますと、輝いている若者たちに対して、
- 嫉妬心
- 腫れ物扱い
- もっとちゃんとしろよと指をさしたい気持ち
になってしまう人がいます。
気持ちもわかるのですが、僕はもうすでにそうしたフェーズは乗り越えてしまいましたね。
人生の青春のほとんどは二十歳までに終わるという言葉があるように、僕らもつまずいたり道に迷ったりしながら10代や20代を突っ走ってきたはずです。
「『これだから今の若い子たちは』おじさん・おばさん」
になるのではなく、少し温かい目で見てやって余裕を持って大人たちが見守ってやっていればいいのではないかと思うのです。
彼らが思いっきり自分の本能のままに従って、バリバリ動いて楽しめる世界にする。
それは学校なら先生の役割ですし、社会なら社会人の上の大人の役割だと思っています。
なんでもかんでも力づくで丸め込もうとしたり、非難の対象としてやり玉に挙げるのではなく、間違えたのなら道を正すのもまた大人たちの役割です。
少子高齢化が叫ばれる日本でこそ、若者たちが輝ける場を提供できれば、社会にも活気が満ちるのではないでしょうか。
僕は学校で弟たちに愛情を注ぐだけでなく、道端で見かけた若い衆にもエールを送っていきます。
また自分自身も、若い人たちのマインドに近づけられるよう努力していきます。
それではまた!
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