こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
4月12日、実はこの日は2年前(2021年)に僕がブログを書き始めた日です。
その1年後に、
という記事も書いています。
そして今日をもちまして、2年間続けることができました。
これも読んでくださっているみなさんのおかげです。
いつもありがとうございます。
今日は「ブログを続けてわかったこと」について書いていきます。
自分の思いを伝え続けること
僕がブログを続けてきてわかったことは、自分の思いを伝え続けることの大切さでした。
最初はそう思っていましたし、
と思っていました。
それでも、誰に何を言われようとも続けてきたこと。
これが1つ、僕の自信となりました。
ここでとても大切なことを言います。
それは、僕の書いている内容が必ずしも正しくはないということです。
しかし「この前提に立てるかどうか」が、発信する時の大きなポイントでした。
この点に関して考えすぎてしまいますと、どうしても記事を書くことができないからです。
僕には、
- いつも思っていること
- いつも考えていること
があります。
思いや考えを発信すること自体は自由であり、その内容の是非が問われることはありません。
それでも「自分」を出していくこと。
するとそこに賛同する人もいれば、「いや違う」と意見が合わない人もいることでしょう。
むしろその形こそが「正しい形」であると、僕は思っています。
自分の意見が合ってるかどうか。
こう思って発信するということは、結局他人の目を気にしながら発信することになります。
誰にとっても「発信する権利」はある。
そこに正解や不正解はないのです。
だから僕は、未熟ながらも伝え続けることをやめませんでした。
この行動は結論、間違っていませんでした。
考えて悩んで「間違いながら」前に進んでいる姿を見せること。
その姿のほうが「完璧な情報」を提供するよりも、みなさんの心に届いたのだと思います。
「思いを届ける」とは、実は1回だけでは足りないのかもしれません。
誰かに届くように、ずっと声を振り絞って、叫び続けることで、初めて届くものなのかもしれませんね。
記録を残すことは正直になること
毎日、自分の感じたことをほぼほぼリアルタイムで書いてきました。
それはみなさんに伝えること以上に、「自分に宛てた手紙」のようでもありました。
そうやって自問自答をするほど、僕は自分にウソがつけなくなっていきました。
今まで自分にウソをついてきた身ですから、
- これほど正直に
- これほどストレートに
自分の想いを伝えてきたことはありません。
自分が自分らしくいられるようになったのは、こうしていつも「自分と対話をすること」ができていたからだと思います。
何かに迷った時に、
と「過去のログ」を見ることで、自分の過去に戻ることができるようにもなりました。
それはつまり、自分の歩いてきた道を振り返ることだと思っています。
普通に生きていれば、このように「過去の記録をためていくこと」はなかったでしょう。
でもこうして、
と決めた2年前から、自分が感じたことを毎日鮮明に残すようになったことで、自分の考え方や感じ方にずっと問い続けることができました。
今ではあまり過去の記事を見る暇はありませんが笑、大学時代にmixiをやっていた時も、何かの折に昔の日記を読んで、自分を鼓舞していたものでした。
その時その時に残す「気持ち」は、ウソではありません。
というよりも、
- 文字として残るため
- みなさんにも読んでもらうため
できる限り、その時の「生(なま)」の気持ちを伝えていかなければと思うのです。
そう感じれば感じるほど、僕のブログは熱を帯び、素直に自分の気持ちを吐き出せる場となりました。
それが独りよがりになるのではなく、どこかの誰かの役に立っていると信じ続けたからこそ、読んでくれる人も増えたのだと思います。
こうしてたくさん書いてきたことが「真実」であるため、友人にスラスラと自分のマインドを話せるようにもなりました。
これも毎日、自分と向き合い続けた結果なのだと思っています。
生きた証になること
ブログを書くことで、「自分の過去」を蓄積していくことができるようにもなりましたが、それは同時に僕の「生きた証」となりました。
見ている人からすれば、
- 何の意味もない
- 続ける理由がわからない
と言われてもおかしくないことでしょう。
ただ僕には、何かを残したいという気持ちがありました。
その媒体は何でもよかったのですが、たまたまそれが「文字だった」という、それだけのことでした。
僕は昔から「何かを書くこと」が好きで、それが今に繋がっています。
ブログを書いている時間は、正直(特に初期の頃なんて)「ムダな時間」だと思っていました。
ただ書いていくにつれて、自分の分身がそこに残るような感覚が出てきました。
もう一人の自分が、いつもそこにいてくれること。
この感覚が出始めたのは、「自分」とずっと対話を続けてきたからでした。
人生において「何かを残すこと」が、正しいこととは限りません。
自分の好きなように生きていくことが、自分の人生をデザインすることですからね。
ただ僕にとっては、生きた証を残すことは大切なことでした。
それは、
- 一所懸命生きていること
- 命を燃やして生きていること
を、自分自身に対して証明したかったからなのかもしれません。
1日24時間の限られた時間の中で、必ず削る2〜3時間。
そう考えたら、とても有意義な時間なのだと感じました。
- 何かを残そうと思えば
- 何か伝わるものを残そうと思えば
それ相応の時間がかかります。
だからこそ、
と思わなければ、続けることはできませんでした。
そこに価値を感じたからこそ、僕にとって「呼吸」のようにできるルーティンとなるくらい、ブログの執筆が大切な時間となりました。
その時間を費やして残すことで、生きている実感とする。
2年間、しんどく続けたわけではなく、自分の「生きがい」として続けてきました。
何かに困ったり迷ったりした時には、また自分の記事を読もうかと思いましたが、今もなお悩み考え続けていますので、過去の記事は「同じように悩んだ誰か」の役に立てばいい。
そう思っています。
おわりに
もともとは3年間続けようと思っていましたので、まだまだ長くかかるかもしれません。
途切れることもあるだろうし、何が起こるかわからないのが人生ですからね。
でも2年間続けてきて本当に、よかったことばかりでした。
自分の気持ちや考えをアウトプットする時間にもなりましたし、少しずつ読んでくださる人も増えましたしね。
2年経ったとはいえ、あくまで1つの区切りでしかありません。
また改めて、自分のためにも続けていこうと思います。
それではまた!
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