あれはダメこれはダメが人々を抑圧してる?【日本は注意が多い国】

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こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、深夜バスに乗って名古屋から神奈川に帰りました。

すると乗車するやいなや、運転手からのアナウンス。

〇〇はしないでください。△△しないようご注意ください。××は迷惑になりますので…
ええい、しゃらくせぇ!

と思いましたね笑。

一体何をそこまで注意するのかと。

今日はそんな苛立ちから笑、「日本の注意とモラル」について書いていきます。

日本ではあれもダメこれもダメという制限から入る。悪い意味で、日本の若者たちを縛っているように思えるのだ。

日本の注意の多さは異常

僕がバスに乗って違和感を抱いたのは、その異常なほどの注意の多さでした。

もちろんこれは日本だけではありません。

アメリカにいた時に兄貴とドライブしていますと、標識をたくさん目にしました。

アメリカではこうした標識がないとダメなんだ

と言われましたので、アメリカは日本以上に「書いてある/書いていない」ということに気をつけているようです。

とはいえ、日本のバスにおきましては、

5〜10分もかけてそんなに説明することある?!

と驚いたものです。

だからこそ、日本にはモラルや秩序があるとは思っていますが、一方で、

あれもダメこれもダメって言われて、僕らは生きてきたんだよなぁ

と、ひしひしと感じました。

そこまでモラルがないわけでもない国民性なのに、注意が多すぎるなぁと。

言われなくたってわかることもたくさんあり、まるで、

あの時言われなかったもん!

と言われるのが怖いかのように、できる限り多くの注意を並べているかのようでした笑。

日本だけではないとはいえ、やはり注意が多いということは事実であり、学校現場でも「注意注意」ばかりで先生たちも疲弊していたものでした。

それは裏を返せば「生徒を信じていない」ということでもあります。

確かに、そういった「教育」によって培われた「モラル」もありますけれど、

なんだか生徒たちをがんじがらめにしているな

とは感じていました。

校則も、本当に意味のわからないものが多いですしね笑。

取り決めや注意は、前提をそろえるものとしては間違いのないものかもしれませんが、実際は人々を縛っているだけではなく、「信頼していない」という意志を伝えているようなものでもあります。

あくまで個人的な意見にしかなりませんが、

日本はもっと注意を少なくしていい

そう感じましたね。

日本では注意事項が多すぎる。それは人々を信じていない証拠でもある。もっと人々を信頼してもいいのではないだろうか。

制約が多すぎると自由がなくなる

学校現場を例にあげたように、「子どもたちに対する制約」としても、過剰に注意することに対して、僕はあまり賛成できませんでした。

戦後の日本の教育が止まっているように、日本はいまだに、

  • 学歴
  • 就職
  • はみ出ない

という意識が強くて、正直、

生徒たちがかわいそう…

と思ったことは多々あります。(だから教員を辞めたのですけれどね笑)

特にコロナ禍の時は文字通り「最悪」でして、生徒たちの唯一の表現の場や活躍の場を奪うこととなりました。

全て大人たちの「都合」でしかなく、

  • 体裁を整えるためだったり
  • メンツを保つためだったり

と、どう考えても「生徒ファースト」ではない状況が続いていました。

「注意すること」は、人々の自由を間接的に奪うことになります。

「暗黙の制約」を設けることで、動きを制限するからです。

そして日本にある最悪のガンとも言える「周りの人の目を気にする」という文化。

2020年はお互いを監視し合うような、最悪の年となりましたよね。

海外に飛び出てしまうと、これもまた良くも悪くも注意が少なく、「何か言われる」ということがほとんどありませんでした。

入ってはいけないところに、わからなくて進もうとした時に、

こっちは立ち入り禁止だよ

と言われたくらいですし、別に「強く注意された!」と感じたこともありませんでした。

逆に何も言われないことが多すぎて、自分の力で「これはどうなっているのか」と聞きにいかなければならないこともありましたけど笑。

それでも、

あぁ、だから海外って「自由」のイメージが強いんだなぁ

と思いましたし、日本に来る外国の方々が「窮屈さ」を覚える意味もわかりました。

だからこその「秩序やモラル」なのでしょうけれど、もう日本はできあがっている国ですから笑、現代においても、

そこまで言わなくてもいいのでは?

と思ってしまうのです。

注意は制約となり、制約は自由を奪います。

僕が一番キラいなものですね笑。

今一度、みなさんが並べている「注意」について考えてみてください。

後から何か言われたくないからといって注意を先出ししているようでは、それはただの保身でしかないですからね。

注意を並べることは制約を強めることだ。それが結果的に自由を奪っていくのだ。

もっと自由度があって良い

「注意が多い国」だと感じた日本。

僕は日本のことが好きですが、海外から帰ってきて不便だなと思うこともありました。

先述したバスの注意アナウンスもそうですし、なんだか「窮屈さ」を感じることは否めなかったのです。

  • 働きすぎ
  • 気を使いすぎ
  • それでいて個人主義
  • それでいて主張がない

などなど笑。

ただこれは、あえてネガティブなことを並べているだけであり、決して重箱の隅をつついて日本をディスりたいわけではありません。

何が言いたいのかといえば、僕が日本を発つ前に感じていた「なんとなくの違和感や窮屈さ」は、世界の「自由さ」と比べた時に、

全くもってその通りだった

と改めて感じたということです。

自分の「肌」で世界を感じますと、

日本は本当に縛ることが好きで、なんとか囲い込んで悪いことをさせないようにしている

という印象が、より強くなってしまったのです。

だから僕は改めて、声を大にして言いたい。

もっと自由でいい

のだと。

日本社会は、悪いことをするようなモラルのない人たちばかりではありません。

多少間違ってもいい」という考え方を植え付けていくという意味でも、そこまで注意せずにどんどんチャレンジできるような環境を作っていくことが大切です。

海外では「恥ずかしい」なんて言ってられません。

生活していくためにも、どんどん人に聞いて「自由な自分」を主張していかなければなりませんしね。

日本の全てが悪いと言っているわけではありませんが、教育現場にいた身からしても、

この「注意する社会」はちょっとやりすぎ…

だと思っています。

もっともっと自由でいい。

それは日本が、

秩序ある、モラルのある社会だ

と思うからこそなのです。

その中で、

  • 失敗できるような
  • 創造性を育てられるような

そんな社会にしていかなければなりませんよね。

だから僕は、

新しく自分自身で教育事業を始めたい

と思ったのです。

それが失敗するか成功するかではなくて、単純に「自由にやりたい」というだけのこと。

いつだってシンプルな気持ちからスタートするのです。

日本に帰ってきて感じた自由度のなさ。日本がモラルある社会だからこそ、もっと自由度を広げたほうがいいと思うのだ。

おわりに

日本にいて感じていた窮屈さは、ちゃんと「実感」として持てるようになりました。

僕がこれからやっていくことも、「自由」に根付いた教育なのだと思います。

時には注意することも必要ですし、むしろ海外の国々ほど「注意をする文化」が必要なのかもしれませんしね笑。

いずれにせよ、僕が住んで暮らしている国だからこそ、自分の身近なところから革命を起こし始めていきたいと思います。

それではまた!

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