もう一度コミュニティについて見直そう【人が集まれば宗教?】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

オンラインコミュニティ「リベシティ」に加入して9ヶ月以上が経ちました。

いろいろありましたが、

いいコミュニティだな

と、しみじみと思っております。

一方で「オンラインコミュニティ」と聞きますと、どこか「うさん臭さ」を覚える人がいるようで、

  • 宗教
  • カルト

などと思っている人もいます。

先に言っておきますが、僕は自分の属しているコミュニティを過大評価するつもりもありませんし、今日は客観的な意見を述べたいと思ってこの記事を書いています。

コミュニティに属している時点で客観的じゃないだろ

というツッコミはさておいて笑、僕は以前「キリスト教」に属していることを記事にしましたし「仏教」についても書いたことがあります。

つまり、もと「宗教ガチ勢」です。

今日は、そんなもと「宗教ガチ勢」から見る「コミュニティのあり方」について、率直な意見を書いていきたいと思います。

宗教はどこにでも存在する。あとは個人の捉え方次第だ。

一口に宗教と定義するのは安易

  • ひろゆきさん
  • 成田悠輔さん
  • 西野亮廣さん
  • 堀江貴文さん
  • メンタリストDaiGoさん

など、錚々たる面々を並べてみましたが、下の3人の方々は(僕の知る限りだと)ご自身の「オンラインコミュニティ」をもっていたと思います。

今の時代では、こうして「個人で囲うこと」がビジネス戦略の1つとして大きく取りあげられるようになりました。

むしろローカルな「コミュニティ」こそが強い時代であり、グローバルに戦おうとすれば、巨額の資金が必要になってきます。

僕が宗教に属していたのは学生時代の話ではありますが、そんな僕からしてみますと、これらのコミュニティに属することは、全くもって「ガチの宗教」のレベルではありません。

どれも「自分の好きな人」、あるいは「近い価値観の人が集まる場所」にお金を払って入ることであり、

  • その恩恵にあずかったり
  • 同じ信念を持つ人たちと一緒に仕事をしたり

することは、特に「宗教」と定義することにはならないと思っています。

もしそれを「宗教」と定義付けてしまっては、

  • ジム
  • 会社の研修
  • ファンクラブ
  • パーソナルトレーナー
  • 社会人フットサルチーム

なども「宗教的なもの」になってしまいます笑。

だって、個人や同じ思想を持つ人たちを囲ったり、そんな人たちで集まったりしているからです。

オンラインコミュニティに限らず、何も考えずに(知らずに)他の集団を揶揄することは、自分自身を批判することにもなりかねません。

人は社会的な動物ですから、必ず「どこかのコミュニティ」に属しているからです。

  • 会社
  • SNS
  • いつメン

なども「コミュニティ」であり、価値観の近い人たちが集まっています。

それを「宗教だ」と非難してイヤがってしまうことは、「自分の存在を否定すること」と同じです。

あ、いやなんとなく宗教っぽいというか危ないと思っただけで…

もし「その集団」についてよくわかっていないのであれば、そうした軽はずみな考え方はやめておきましょう。

当事者から話を聞いた上で、

  • マルチ商法
  • 強引な勧誘

が見えたとしたら、疑ってもいいかなと思います。

実際、僕の友人・同僚にも、様々なオンラインコミュニティや地域のコミュニティに所属している人はたくさんいます。

まずは、自分がどんな集団に所属しているのかを考えてみましょう。

仮に自分の集団と相手の集団に心理的な距離があっても、お互いを尊重することが大切ですね。

ネガティブに、コミュニティを「宗教」や「カルト」と安易に呼ぶのは避けよう。自分もなんらかのコミュニティに参加しているという自覚を持っておこう。

それでもやっちゃいけない「盲信」

以前、「盲信しないこと」について記事を書きました。

僕が懸念していることといえば、ある「人」や「神」という存在を、

  • 盲信する
  • それ以外を否定する
  • 信じさせようと強制する

と言った点です。

もと「宗教ガチ勢」としてイヤな思い出だったのは、

  • 無理強い
  • 狂信的過ぎて盲信

するような人たちでした。

宗教や好き嫌い、あるいは目に見えない神や信念などの「思想の選択」は、自由であるべきですし、

  • 自分だけを信じている人もいれば
  • 諸外国では神を信じるのが当たり前の国もある

など、人の思考とは本当に「何でもあり」だということを忘れてはいけません。

また僕がダンスを愛して止まないように、何かに狂信的(めっちゃ好き)になってもいい(というか素晴らしいこと)とは思っていますが、

それしかありえない

と「盲信している人」を見かけた時は、非常にげんなりしてしまいます。

要は「どんなコミュニティに所属しようが」その人の勝手であり、そのコミュニティ自体を、

  • 「宗教っぽく」捉えるのか
  • ただの人の集まりだと捉えるのか

は、「内側の人/外側の人」の裁量なのです。

そこで盲信してしまうかどうか。

それだけのことなのです。

僕も長いことダンスをしていますが、とあるチームはいわゆる「宗教っぽく」見えることもあります。

自分たちのスタイルを守り、それに賛同できる人だけを募ったり取り入れたりするからです。

しかし、だからと言って否定したり揶揄したりするのもおかしな話です。

魅力的に映れば参加したって構いませんし、そうして囲い込むことで同じ価値観の仲間を集めることもできます。

みなさんも「どこかに所属している」はずですので、自身のコミュニティを「正義」として安易に定義するのではなく、柔軟に考えましょう。

  • コミュニティの良し悪し
  • トップに立っている人やコミュニティの人たち

をいつも眺めて、自分がそこにいるべきなのか、離れるべきなのかを考えましょう。

ある程度価値観は近いはずですから、心地良ければそのままいてもいいです。

一方で、問題があったり精神的にキツくなったりと、あまりにも摩擦や軋轢(あつれき)が生まれてしまったら離れればいいと思います。

選択するのは自由だからです。

ただし、上で述べたような明らかな「マルチ商法」などの危ないコミュニティに、友人が足を踏み込もうとしているシチュエーションでは、そっと諭(さと)してあげるのがいいかなと思っています。

自分が今いるコミュニティが心地よいか、盲信者や批判家が多いのか。客観的に考えた上で、その場にいるか離れるかを決めていこう。

コミュニティに対する客観性を養う

以前にも、コミュニティを分散させることの大切さについて、記事を書きました。

「コミュニティを分散させる」≒「客観性を養う」

と言ってもいいでしょう。

簡単に言えば、「いろんな人の意見を聞け」とも言えますね。

それぞれの「外からの意見」を聞くことができるからです。

オンラインだろうがオフラインだろうが、どちらのコミュニティが正しいとか安全だとかは、当然ながらありません。

大切なのは「できる限り偏らないこと」です。

属するコミュニティの数やその性質の問題というより、自分自身の「考え方の問題」です。

「盲信してはいけない」と言えばいいですかね。

なんで盲信しちゃいけないの?好きであることはいいことじゃないか!

おっしゃる通りですが、それはやはり「他人の人生を生きること」になるのではないかと思っています。

僕も今まで数え切れないほどの、

  • 先導してくれた人
  • アドバイスをくれた人
  • 目を覚まさせてくれた人

と出会ってきました。

今でも尊敬していますし感謝もしています。

頻繁に会う人、たまに会う人など様々います。

ただ、その人たちをずっと「崇拝」し続けてしまいますと、最終的には自分の頭で考えられなくなってしまいます。

あの人はこう言っていたから

それは、

神はこうおっしゃっているのだから

と言っていることと変わりません。

「考え方の問題」と言ったのは、まさに尊敬する人(神)を、

  • 参考にするのか
  • 盲信してしまうのか

で、大きく違ってくるからです。

あの人はあぁ言っていたよ。賛成はしているしいろいろと比較して考えてみたけど、正しいと思う
実際に自分でも実践してみたけど、かなり心が豊かになった。わたし的にはオススメの方法かな

こう言うのと「とりあえず正しいから信じてやれ」というのでは、わけが違います。

いつでも、最終的に決めるのは自分自身です。

その「最終決定権」を誰にも渡すことなく、コミュニティに属したり離れたりすること。

それが、自分の人生を「自分で選択して生きること」です。

客観性を保つために、多くの人と出会い視野を広げること。

そして多くの本を読み、多くの人の考え方を学ぶこと。

「分散」を効かせて、今自分が所属している無数のコミュニティ同士に客観性を持たせますと、1つがふと消えてしまった時も「自分の頭」で考えることができるのです。

各々の所属しているコミュニティに客観性を持たせることは、盲信しないことと同じだ。それは自分の人生を、自分で生きることなのだ。

おわりに

コミュニティと言っても様々あり、

  • 怪しげなものから
  • 間違いないものまで

幅広く無数にあります。

それを取捨選択さえできれば、どこにいようと変わらないでしょう。

ただ、コミュニティには「人」がつきものです。

そこにいる「人たち」が、自分の人生にとって豊かな存在であるのならば、それ以上の収穫はないでしょう。

そんな「人たち」を探していくこともまた人生です。

盲信せず、自分の頭で考えながら生きていきましょう。

自戒の念も込めて。

それではまた!

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