果たして教育に年齢は関係あるのか?【限定するのはナンセンス】

雑談

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

高校生の先生をしていますと、若い子たちに英語やダンスを教える楽しさがあります。

こうやって青春できるのもいいじゃない

と思って教えています。

一方で教育の難しさは、

  • クラスサイズ
  • モチベーション

がポイントとなっていることです。

  • 多ければ多いほどいいのか?
  • やる気のない生徒を奮い立たせるのが先生の役目なのか?

現実は厳しく、学校現場は教える側に頼りすぎています。

改めて教育を見直した時、僕らが考えるべきことは何か。

早速見ていきましょう。

いつから学んだっていい。年齢なんて全く関係のないことだ。

学ぶのに遅すぎることはない

小中高と教育が「年齢」で区切られているのは、義務教育との関わりがあるからです。

とある人からすれば「ナンセンス」なのかもしれません。

僕もそう思います。

海外には飛び級もありますから、

一律で同じように学ばさせる意味がわからない

と思い始めている人もいます。

「学年制」がダメだとは思いませんし、同学年だからこその親近感やぶつかり合いもあります。

ただ、僕自身も英検やTOEICを学び直したように、

「いついつまでに〇〇をしなければならない」

という考えは、あまり意味がないと思っています。

「タイムバケット」と言って、

いついつまでに〇〇をしたい!

と、自分の「やりたいことリスト」を立てることは、また別の話です。

僕は思いました。

ん?それなら教える側も変わっていいのではないか?

僕は一番「大人」に近い「高校生」を教えることを決意して、教員を目指しました。

晴れて教員となった後、進学校では「教えて欲しい!」と言う子はボチボチいましたが、40人を相手していますと、自分のやりたい教育と言うよりも予備校に近い感覚がありました。

勉強が苦手な子たちがいる高校でも、それはそれで楽しく学びがあったのですが、生徒のモチベーションはほぼありませんでした。

それにつられて、僕自身も学ぶことをやめていました。

さて、どうしたものか?

行き詰まって出した僕の答えが、自分なりの教育をすることでした。

別に中学生でも大人でも、「英語を学びたい」という人に丁寧に教えてあげればいいじゃないか

「年齢」という謎のくくりを取っ払い、学ぶ意欲のある人を相手にして、英語を教えたらいい。

  1. 学校で勉強して、
  2. 難関大学を受験して、
  3. キャンパスライフを送る。

もうそんなレールに、こだわる必要のない時代となったのです。

では、僕ができることはなんなのか。

考え始めると、夜も寝るのが惜しいくらい、楽しんでいる自分がいることに気づいたのでした。

学ぶことに年齢は関係ない。年齢によって学ぶタイミングを決めることは、ナンセンスだからだ。

学びたい人は世の中に溢れている

僕が「学校」という場所に縛られていたのは、

自分にはここしかない

と思っていたことと、あとはわずかながらでしたが、

学校現場「から」教育業界を変えたい

と思ったからでした。

実際は、

  • 何も変えることのできない現場
  • 雑務だけが繰り返されるムダな時間

に気づき始めて、退職することを決断しました。

教員になってわかったことや、学んだこともたくさんありましたし、その経験があったからこそ「今の自分がいる」と思っています。

しかしひとたび外の世界を見てみれば、

英語をやり直したい

と、切に願い、もがきながらも熱心に勉強している人たちがいました。

僕はそれを見て、

自分は今まで何をしていたのだろう

と思ったのでした。

別に「時間をムダにしていた」とまでは思いませんでしたが、

僕にできることは、きっともっとあるはずだ

と思うことができたのです。

「学校」という与えられた場は確かに心地よいかもしれない。

でもその「箱」は、僕にとっては小さすぎました。

「年齢」に囚われる必要がないように、僕の教育だって、世間のニーズだって、広く自由に探していけばいい。

「学びたい」と思っている人にアプローチしなくて、何が教育者だ

だから今、こうして「学びたい人」に向けて英文法を教える機会をいただけていることで、僕はもはや水を得た魚、バナナを得たゴリラとなったのでした笑。

その熱量は今まで感じたことのないほどの「アツさ」であり、僕の琴線に触れ「生きるエネルギー」となりました。

学ぶことに、年齢も住所も関係のない時代です。

僕がやるべきことは、もうわかりきっているのです。

学びたい人であふれている世の中なのだから、そこにアプローチしていけばいい。僕は自分の使命に気づいたのだ。

だから「学校」は大事

あれ?さっきと言ってること矛盾してるじゃん!

僕が学校現場で9年働いてきて思うことは、「学校」のような場が大切であるということです。

年齢に関係なく学ぶことは、一見すると自由のように思えますが、とても根気のいることですし、始めようと思ってもなかなか「きっかけ」が掴めなかったりします。

そこで必要なのは、

学びたいと思える仲間

が集まる「場」だと思いました。

僕は基本的に、誰であっても「学びたい」と思う人には全力で教えます

ただ、「勉強」は1対1のように少なければ少ない教育ほど効率的に思えますが、実は違います。

ともに学ぼうとする仲間がいるからこそ、

  • 継続できたり
  • 自己肯定感が上がったり

するものなのです。

ここで「現在の学校」に目を向けてみますと、そのエネルギーが絶妙にアンバランスであることがわかります。

様々な生徒と出会える一方で、

  • 僕の教えたいターゲット
  • 学びたいと思えている生徒

ベクトルを向けることができないのです。

生徒たちのモチベーションやベクトルもまちまちで、「本当に学びたい」と思っている生徒が埋もれている現状も見てきました。

だから「学校」やあるいはそれに近い施設(オンラインでも構いませんが)、そのような「場」があることで、1人ではなくみんなで学ぶことができます。

それも「同じ方向を向いた人たちで」です。

年齢も肩書きも取っ払った、そんな「教育の場」を僕は求め続けているのです。

教育が誰にでも開かれている分、一緒に学べる仲間を集めるのは難しい。だからこそ、「学校」のような場は必要なのだ。

おわりに

学校にいますと、モチベーションの低い生徒に会うたびに、先生という職業の難しさを感じます。

彼らを「やる気にさせること」は、決して先生たちの仕事ではありません。

それは考えれば簡単なことで、本人の興味のないことを無理に学ばせることはできないからです。

「5教科」なども、根本まで突き詰めれば本当に必要なのか怪しくなってきます。

大切なのは、

  • 「場」に縛られたり
  • 「年齢」に縛られたり

しないこと。

同じベクトルを向いている仲間たちと学び合うことなのです。

そのために、これからの僕ができること。

それを考えて、行動に移し、社会のために尽くしていこうと思っています。

それではまた!

コメント

タイトルとURLをコピーしました