自分ができたことに慢心しないこと【いつでも一番大切なこと】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、自分が所属しているオンラインコミュニティで、表彰されてしまいました。

どうやら、

朝活毎日頑張ってくれてありがとう!

という内容だったらしく、一定数の人が投票してくれていたようです。

嬉しい反面、

僕は別に、何も特別なことはしていない

と思っていますし、いつも褒められたくて朝活をしているわけではありません。

今日は、僕が道を踏み外さないように改めて「大事にしていること」について書いていきます。

感謝されたくてやろうとするな。感謝はあくまで結果論。いつでも曲がらないように歩いていこう。

褒められたいフェーズは終わった

何度か「褒められたいわけじゃない」という主旨の記事は書いてきましたが、実は僕が若い頃は、承認欲求のカタマリでした笑。

特に勉強ができますと、

すごいじゃん!

と、家族や友人たちから褒めてもらえましたので、意気揚々としていたものでした。

転機が訪れたのは、教員時代の2校目に配属されてからです。

  • 生徒との摩擦
  • うまく行かない授業

ヤキモキする気持ちを引っ提げ、少し経験年数が上の先生に相談したところ、

自分がいかに調子に乗って指導していたか

をダイレクトに感じることとなりました。

それからというもの、

生徒に感謝されたくて、好かれたくてやる授業(教育)はやめにしよう

と思いました。

オンラインコミュニティに参加した時も、まだ少しトガってはいましたが笑、やはり「英語ができない人に英語を教えること」の真髄(しんずい)を知ったような気がします。

要は、

  1. 人から褒められたくてやる「GIVE」から
  2. 純粋にその人のためになるような「GIVE」に変えた

ということです。

これは長い目で見ますと、やはり大切なことでした。

目の前のお金欲しさに適当に授業したり、ただただ顧客を集めて売りつけたりする商法よりも、時間はかかりますがその分「信頼が貯まる」ので、長期的に見ますと「大きな資産になる」ということです。

感謝されたい。褒められたい!

と思っている人は、要注意です。

実はそこで褒められたとしても、何も残っていない可能性が高いからです。

人の本質とは、そこにある「愛」ですからね。

信頼があれば、自然とお金に繋がってくるのです。

僕はどんどん「与え方」を変えていった。人に感謝されたくて、褒められたくてやるGIVEは続かないし見透かされる。だから長く与えられるよう、水を撒いていこう。

道を間違えないこと

さて、こうして表彰されてしまいますと、

お?俺ってなんだかすごいんじゃない?

と勘違いし始める人がいます。

これが典型的な「転落人生」ですね笑。

何度も言いますが、そもそも僕は「誰かに褒められたくて」やっているわけではありません。(そう変わりました)

結果的に「ありがとう」という “感謝” をいただいただけの話であって、それをきっかけに変な行動をしていたら、

何のために僕は朝活をやっていたんだ?

となってしまいます。

  • お金をもらいたいため?
  • 誰かに認めてもらいたいため?
  • 寂しい自分に友人が欲しいため?

こうした邪念がある時点で、誰もついてこなくなります。

僕は先日、福井に友人たちと行ってきましたが、

これなんだよ…こんな時間が欲しかったんだ

と、感極まったことを覚えています。

要は、

「私利私欲ではなく、無欲にも人のために尽くせる人」

が「聖人」であって、それが僕の目指すところです。

もちろん、僕だって煩悩のカタマリではありますが笑、以前よりも「足るを知ること」を理解し、金融資本よりも友人との社会資本のほうを大事にするようになりました。

人生、どんなにお金があったとしても、友人や家族との時間には代えられないと悟ったからです。

しかし、ひとたび何かを間違えて(履き違えて)しまいますと、一気に自分の「軸」もブレ始め、結果的に人が離れていきます。

  • どんなに褒められても
  • どんなに感謝されても

自分の軸を曲げることなく、淡々と進めること。

一喜一憂するようであれば、その程度の朝活だったということです。

少し報酬もいただけるようなのですが、自分のために使うのはどこか気が引けますので、みなさんとの時間に使おうかなと考えています。

だって、参加していただいている「みなさんあっての朝活」ですし、お金目的でやっているわけではありませんからね。

金銭的な話を超えた、もっと先の心理的な繋がりの話をしているのです。

ちょっと褒められて感謝されたからといって、道を間違えないことだ。ちゃんと自分の信念に従い、活動を続けていこう。

感情を捨てろ

先ほどの話にも通じますが、感謝されることは大変嬉しいことですし、恐縮でもあります。

「一喜一憂」の話ではありませんけれど、僕はもうそうした「お褒めの言葉」を無視するレベルにまできました。(最低笑)

あぁ、はいはいわかりました。いいです感謝とかしなくて

と、相変わらず「受け取ること」が苦手な僕としては、こういう反応しかできません。

でも僕はこうすることで、

自分のやっていることは、本当に正しいことなのだろうか?

と考えられるようになりました。

昔の僕は、それこそ感情に任せて生きていたのだと思います。

それはそれで若気の至りと言いますか、熱くてキラいでもないのですけれど笑、今のほうがより「自分の気持ち」に従って活動ができているのだと、そう思っています。

  • ただ英語を教えたい
  • いろんな人と関わっていたい
  • みんなの集まれる場を作りたい

ここに、悪い意味での「感情」が入り込むことは、僕の軸を崩す引き金となってしまいかねません。

やったー!褒められた!もっと頑張っちゃおう!

とね笑。

そんなことをしていたら、

  • 感謝されなければやらないのか?
  • 人が集まらなければやならないのか?

と、常に「誰かからの評価や感謝」で物事を決めることになりかねません。

そういう活動は続きませんし、他人に「自分の活動の是非」を委ねることになります。

だから、いい意味で「感情を切り捨てる」こと。

感謝やお褒めの言葉も、一応は頂戴しましょう。

しかしそれが第一の目的であるならば、以前の自分と何も変わりません。

そうやって朝活やブログ、インスタを始めたわけではないからです。

感情に従うことは、人間としては大事なことです。

ただ、そこに振り回されているような人生だったら、波の起伏が激しすぎて安定しないのです。

だからこそ、僕は今回のような件があったとしても、

それはそれ。これはこれ。朝活を続けていこう

となりました。

時にツラいこともありましたし、

続けていくことに意味があるのか?

と自問自答することも多々ありました。

それでも、そんな感情論をかなぐり捨てて、続けなければならないのです。

その先に、結果論として「感謝されること」があるだけであり、いつでも先出しが前提であるということ。

報酬は二の次、三の次の話なのですね。

僕は、何かの見返りのために動くことはほぼなくなった。純粋に人のために生きれるようにするために、感情を捨てたのだ。

おわりに

もちろん、何かこう、

「自分のやってきたことが評価される

ということは、とても嬉しいことでもあります。

ただ、そこに気持ちが入りすぎてしまっては、一体なんのために自分が活動しているのかわからなくなってしまいます。

だから僕は、もうそういう感情を切ることにしました。

そのほうが、より信頼されるようになったからですね。

みなさんも、まずは先出しをしてみてはいかがでしょうか。

それではまた!

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