こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
SNSやブログをやっていますと、自分の使う言葉や考えていることを文字に起こす時に、かなり意識するようになります。
少し前からも「ネガティブな言葉」は避けるようになってきましたが、実はTwitterを始めた12年前は、グチや文句ばかりを言っていました。
今となっては、ほとんどそう言ったことはつぶやかなくなりましたし、同僚と立ち話をしていても、そういったネガティブな話になったとしても、
と、その人の悪い部分だけを捉えることが少なくなりました。
今日は「言葉の取捨選択」について書いていきます。
SNSで気をつけるようになったわけ
以前の僕は、とにかく「イライラしていた」ことが多かったものでした笑。
そう言った思いの丈をつぶやく場所が、「Twitter」だと思っていました。
しかし残念ながら、以前の自分のツイートを遡ってみますと、とても読めたものではないものばかりでした。
- 電車が止まった。ありえん!
- 同僚マジで仕事できない。無理。
- 俺今日はやる気出ない。もう自分がイヤ…
確か、こんな感じのツイートばかりをしていたと思います笑。
これをみた時に、みなさんならどう思うでしょうか。
と、そう思うのではないでしょうか。
これらのツイートを見ただけでも、
と思い、スルーしますよね。
しまいには、ブロックしたりミュートにしたりするでしょう。
ネガティブなニュースを報道してしまうテレビのように、近しい人にもそうした発言をしてしまう人は一定数います。
はい。
僕もまさに自分の気持ちの「はけ口」として、Twitterを使っていたものでした。
それはいいのですが、結果的に人は離れてしまうんですよね。
当時の僕は気づいていませんでしたが、実際は誰も「いいね」なんてしてくれませんでした。
普通に考えても、
と思いますものね笑。
自分の悩みやツラいことを言うことは救われるように見えますが、実のところは何の効果もありません。
と思っている人は、僕は「勘違い」だと思っています。
それは根本的な解決にはなっていません。
自分の口からは、ネガティブな言葉しか出ていないからです。
そういう人は、次回も必ずグチを溜め込みます。
「ネガティブな感情を溜め込んで、グチを吐き出す」
上の文を見ただけでも「何の意味もないこと」がわかりますよね。
そうなんです。
「全く意味のない時間」となってしまうのです。
まず「やめる」こと
そうした「意味のない時間」に気づいた僕は、
…とは思いませんでした笑。
それは「自分にウソをつくこと」だからです。
そのように「取り繕(つくろ)った自分」を発信していても、逆にいつか自分がダメになってしまうとわかっていたからです。
最初に僕がとった行動は、とても小さな一歩でした。
それは、
「ネガティブな発言をやめること」
でした。
とにかく、公の場ではそう言った発言はしないこと。
このミッションを遂行するには、多少なりとも「意図的な力」を働かせる必要がありました。
投稿する前にもう一度文面を読み直し、グッと我慢して削除したのです。
最初こそ疑問に思いましたが、結論から言って「素晴らしい結果」が得られました。
ネガティブ発言がなくなっていきますと、当然のことながら自然とポジティブな発言が増えてきます。
- 自己肯定感が上がった
- 他人のことを悪く言わなくなった
と、すぐに効果が出てきました。
特に「人生が好転していく実感」が湧いたのは、周りに「良い人たち」が集まってきたからでした。
- イヤなニュースを見るより、ワイワイ楽しんでいるほうを見たくありませんか?
- YouTubeを見ていればわかるように、楽しそうな動画のほうが見たくなりませんか?
それと一緒です。
良い人たちが集まってきますと、ポジティブな空気が流れるため自己肯定感は上がりますし、楽しい時間と空間を共有することができます。
僕は「ネガティブ」については何度も投稿していますが、別にネガティブな人を全否定しているわけではありません。
ただ、僕自身がそうした「ネガティブ時代」を経験していますので、経験者から言わせてもらいますと、やはり「意味のないムダな時間」としか言いようがありません。
いくら思い出しても、あの時間から得たものはこれっぽっちもありませんでした。
もちろん、そういうことを考えてしまうことは仕方のないことですし、人類が生き残っていくためには必要不可欠な考え方でもあります。
しかし「ネガティブな言葉」を選び続けていても、自分を貶(おとし)めてしまうだけで、魂はくすんでいってしまいます。
そのような「否定的な言葉」を選んだ時に、自分は他人からどのように見られているのか。
今一度、考えてみるといいでしょう。
言葉を選んで発するようにすること
以前にも「悪い言葉や汚い言葉を使わない理由」について、記事を書いたことがあります。
ネガティブ発言や誹謗中傷が同じだとは言いませんが、大きな括(くく)りで言えば「ほとんど一緒」だと思っています。
それらの言葉を発する目的が何なのか、僕にはわからないからです。
経験上、それによって自分の気持ちがスッキリしたわけでもありませんでした。
さらに言えば、誰かがそれを聞いて喜ぶわけでもありません。(炎上商法をやっている人なら喜ぶかもしれませんが笑)
総じて、
- 意味のないこと
- 価値のないこと
- ためにならないこと
これらを公の場で(あるいは友人たちと)発したところで、
- 信頼は失われ
- 人は離れていき
- 自己肯定感は下がる
と、「トリプルパンチ」を喰らうハメになります。
結局そこに「意味も目的もない」とわかったのならば、やらないほうがいい。
むしろ1つ1つ丁寧に言葉を選んで発している人のほうが、
- 信頼され
- 人が集まり
- 魂が磨かれてゆく
と思っています。
大切なことは、「ポジティブになれ」と言っているわけではないということ。
「言葉を取捨選択して、きちんと発しているかどうか」
が、ポイントなのです。
僕はそういう人間になりたい。
誰かに思いを伝えるということは、そこに責任を伴うと思っているからです。
「誰も傷つけなければいい」と言われればそうかもしれませんが、少なくとも僕はこうしてブログを書き、誰かに向けて発信しています。
そこに人が集まるかどうかは、僕の「言葉選び」にかかっていると思っています。
- 僕の言葉で読者をイヤな気持ちにするのか
- 僕の言葉が読者を元気づけたり、勇気づけたりするのか
僕が選ぶ言葉には、僕の生き方や考え方そのものが吹き込まれています。
だから一言一言を大切にし、みなさんに想いを伝えていく。
これを大切にしていきたいと思っています。
おわりに
人に何かを伝える。
その方法や言葉選びだけでも、その人そのものがわかります。
言葉には魂が宿り、人に伝わります。
僕はこうして毎日何かを書くようにしていますが、言葉には人一倍気をつけています。
これは先生として、生徒や同僚の先生に対しても同じです。
不愉快に思われるようなことは言わずに、一方で自分の言いたいことはきちんと発すること。
難しい按配ですが、その取捨選択こそが僕自身を表すことになりますからね。
とても繊細な作業ですが、これからも大切にしていきたいと思っています。
それではまた!
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