こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
僕は今、名古屋へと向かっています。
2021年から人生を見つめ直した僕は、いろんな友人と出逢いながら、日本や世界を回りました。
人と関わっていくことを「社会資本を育てる」と言いますよね。
僕は昔からシャイで、
とか、
と、人間関係に苦しさを覚えていた人間でした。
中学3年生からお笑いに興味を持ち始め、
と悩み、それから切り拓いていったものです。
今日は「人間関係の築き方/コミュニケーション術」などについて書いていきます。
空気を読むことやボケを覚えた学生時代

小学校時代、確か友人が「ちょっと落ち込んでいるかなんかのシチュエーション」がありました。(曖昧)
その時に、僕は朗(ほが)らかな口調で話していたのか、
と友達に諭(さと)されたことを覚えています。
と、幼いながらも感じたものでした。
中学時代には、勉強をしすぎていたために、
と頭を抱え、当時流行っていたお笑い番組「エンタの神様」を見ては、
と学んでいたものです笑。
僕は勉強はできましたが、コミュニケーション能力はさっぱりでしたからね。
大学時代には、やっと「陽キャ」とも言えるようなダンスサークルに入ったはいいものの、女子と話せなくてツラかったですね。
それでも、徐々に自分から切り拓いていった感はありました。
思い返してみれば、人と関係を作るために我ながら努力をしていたものです。
特にこの思春期の真っ只中(多感な時期に)、コミュニケーション術を確立してゆくのは至難の業(わざ)でした。
しかし、そうやって一つずつ学んでいった時間とは、とても貴重だったと思っています。
その時代時代によって、自分なりにカスタマイズしていたのでしょうね。
そういった意味では、
と、改めてそう思いますね。
社会的に生きてゆくための、いい学びの場だったと感じています。
人との関わり方は学び

先述した通り、人と関わってゆくということは、一つの学びでもあります。
それぞれの性別や背景、性格などは様々あるとは思いますが、
と感じています。
そういう本を読んだっていいですし、今ではAIに聞くこともできます。
どんな形であっても、自分なりにアップデートしていかなければならないことは、たくさんありました。
要は、コミュニケーション(=人との関わり)もまた、勉強なのだということです。
これを、
と言う人がいれば、それは言い訳だと言わざるを得ません。
僕は以前、
- 坊主かつゲジ眉で
- ビン底のようなメガネをかけて
いましたから笑、
を、ある程度は知っているほうだと思っています。
そういえば女性に関して言えば、「自分が肉体的に弱い存在だ」と言う潜在意識から、グループを作る生物だと言われていますよね。
これは一種の生存本能であり、生きるために僕らは働いたりコミュニティを作ったり、助け合ったりしているわけです。
こうした例をとってみても、コミュニケーションとは生きていくために必要不可欠な手段だということがわかりますよね。
コミュニケーションにおいても、多少なりとも努力していかないと人間、生きていけないのです。
以前、武井壮さんもそんなことを言っていました。
とおっしゃっていました。
そこをすっ飛ばして、才能だのキャラクターだのに逃げていてはいけません。
- 学ぶ
- 本を読む
- 自分を分析する
- いろんな人と関わってみる
などなど、できる努力とはたくさんあります。
いろんな状況があって、難しい立ち位置もあるかと思います。
でもそれはみなさん、一緒ですよね。
無理はしなくていいですし、強引に自分のキャラを変える必要もありません。
ただ、僕が学生時代にいろいろと気づいたように、多少なりとも「学ぶこと」をしなければ、前に進むことはできないのです。
譲れない部分と譲り合う部分

人との関わりで学んだことと言えば、
という空気の読み方でもありました。
しかし、ここにも「罠」があります。
そうやって、自分を押し殺してしまう人が一定数いるということです。
あるいは「Yesマン」となってしまったり、世の中に迎合して他人の敷いたレールの上を歩いてしまう人ですね。
これでは “コミュニケーション”(=双方向)ではなく、一方通行となってしまいます。
しかし逆に、
となりますと、今度は相手にストレスがかかってしまいます。
コミュニケーションにおいて大事にしなければならないこととは、
- 自分を曲げないこと
- お互いを尊重すること
です。
これが共存するのだから面白いものですよね。
大事なのは押し引きのバランスだということ。
やってはいけないこととは、
- 意図的に空気を壊す/乱す
- 我(が)を通して人の意見を聞こうとしない
- 人の意見を全て鵜呑みにしたり言いなりになったりする
などでしょうか。
いわゆる「ディスコミュニケーション」ですね。
一人一人にアイデンティティや信念、好きなものや嫌いなものがあるのは当然であって、それらを互いに尊重するところから、コミュニケーションとは生まれるものです。
と思っている人は、ちょっと待ってください笑。
そもそも、そこに時間を割く意味とは何でしょうか。
相手のことを批判したところで、その人が “その場で” 変わるわけでもありません。
と、お互いの意見をぶつけ合いながら、「ふむふむ」と意見を聴いて持ち帰り、自分の糧にすること。
柔軟性のある人とは、いろんな人から好かれるようになります。
と思わせられるからですね。
僕は教員になってから、そのような姿勢を持つように努めました。
特に聞き手に回ることが多かったことも、そのような意識を強めた要因ですね。
一方で、「教員としての軸」をしっかりと伝えなければ、
とも思われてしまいます。
「軸」を確立するためには、たくさん本を読んだり経験したり、人と話したりする意外、方法はありません。
戻りますが、結局は『勉強』なんですよね。
相手の意見を聞いたり空気を読んだりして譲れる部分は譲り、「自分はこう思う」とはっきりとした意見を持って譲らない軸も作っておくこと。
それを互いに尊重しながら、人との会話を楽しんでいきましょう。
おわりに
僕は、
- 学生時代
- 教員時代
などを経て、人との関わり方を自分なりに学んできたほうだと思います。
人間関係を拗(こじ)らせている人とは、どこかで他責思考になっていたり、反省をしなかったりと、努力を怠っているのかもしれません。(責めているわけではありません)
もちろん、それは僕にも言えることですので、毎日学びですけれどね。
一緒に学んでいきましょう。
それではまた!
