こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、「生徒から切られる」という記事を書きました笑。
毎日オンラインで授業を受けられていた方でしたが、
と言われてしまい、

と思っていたのですが、すぐに授業に入ってきましたので、「どうした?」と言ってしまいました笑。
そう言ってきたのです。
実際やってみたところ、とてもよくしゃべることができていて、

って言ってあげました笑。
今日は「生徒や友人の成長」について書いていきます。
自分のことばかりを考えていた頃の自分
僕がもっと若かった頃は、
- いかに自分が褒められるか
- いかに他人から良い評価を受けられるか
ばかりを気にしていました。
教師としては致命傷でして笑、もちろん「良い授業」をすることは大事なのですけれど、だからと言ってその先にある「他人(生徒)からの評価」を求めていたとしたら、それは本質ではありません。
それを気にしなくなって始めたオンライン授業でしたが、いつも全力で教えているからか、結果的に多くの人からありがたいレビューをいただけております。
全力で教えている時というのは、基本的に「生徒ベース」であるからなのかもしれませんね。
- その人の理解を促し
- できていないところは指摘し
- できるようになったところは褒める
しかし厳しくするのは一筋縄では行かなくて、生徒の弱さや甘えについ乗っかってしまうことがあります。
それが若かりし頃の僕でして、「優しい先生」「当たり障りのない先生」を演じていたんですよね。
実はそのほうが、信頼は落ちてしまいます。
と、すぐに気づかれるからです。
だから忖度なく僕の意見をぶつけた先日は、
と言われてしまいましたが、僕は以前の「表面を撫でている先生」ではありませんので、何の後悔もありませんでした。
正論がいつも正義だとは限りませんが、「甘えや逃げ」に対して僕がヘラヘラしていますと、それが巡り巡って僕のところに返ってきます。
とね笑。(理不尽すぎる笑)
だから本当の意味で “先生” という立場である以上は、もう以前のように他人からよく思われるような発言はやめることにしました。
そのスタンスを貫いているからこそ、
と思われたのかもしれませんね。
生徒に厳しく当たる理由
僕は「優しい先生」である一方で、忖度もないし適当にやっている生徒には厳しく当たるため笑、結構「厳しい先生だ」と言われることもあります。
一応自覚はあるのですが笑、みなさんからは、
とよく言われますけどね。
先日もその生徒さんに対して、

とお伝えしました。
僕も言うのが辛かったですが、なりふりかまってられません。
その生徒さんに一番必要だと思うから、僕は伝えたのです。
ところで僕は受験時代、浪人を経験しました。
その時の敗因はガッツリわかっていまして笑、
- 適当に解答をノートに写し
- 自分で解こうとすることなく
- ただ難しい問題集を終わらせていただけ
でした。
失敗の要因は明らかであり、激しい後悔にうなだれました。
そんな僕の勉強法と非常によく似ていたため、「ただただ授業を受けているだけ」の生徒さんに強く言ったのでした。
- 主体性を失った時
- 自分で考えなくなった時
勉強は、意味を成さなくなります。
しかし先日、
と言って授業をとってくださったので、

と言って話させたところ、授業の9割をずっと英語で喋っていました。(拍手)

とメッセージを送りました。
人は自分の弱いところを突かれると、しんどくなります。
僕も教員になってから何度、
と怒られたことか。
その時は悔しかったものですが、いかに自分が足りていなかったのかを、のちに痛感することとなりました。
厳しく指導するというのは、強い言葉をかけることではありません。
その人が弱みとしている部分を、的確に指摘することです。
生徒からしても、それが一番イヤなのです。
先生だって、関係が壊れるのであれば言いたくありません。
それでも僕は、それをあえてするようにしています。
なぜか。
生徒に好かれる授業をすることではなく、生徒の力を伸ばしてあげることが、僕の責任だからです。
生徒のポテンシャルを信じること
生徒の成長とは嬉しいものです。
厳しく指導をし始めた当初、ダンス部から担任の生徒まで、多くの生徒から「厳しい先生」と認識されるようになりました。
しかしそれ以上に、生徒から信頼され好かれるようになったのは、僕が適当にものを言わない先生だったからなのだと思っています。
そしてその後のほうが、圧倒的に部活動も自分のクラスも良くなったことを覚えています。
「その人の弱み」とは、他人が一番指摘しづらいものです。
指摘されて反発していた頃の僕のように笑、指摘されていい気持ちがする人なんてほとんどいません。
ただ、僕には先生としての責任があるから、そうするのです。
人の成長を促すには、
- 褒めちぎること
- 得意を伸ばしてあげること
だけでは通用しないことがあります。
「できていない部分」にちゃんと指摘を入れ、できた時に褒めるからこそ、信頼されるようになります。
ここで、


と適当に指導していたら、僕から多くの生徒さんが離れていったことでしょう。
僕がそれだけ指摘をするのは、

と信じているからなのです。
確かに勉強やスポーツ、芸術や音楽にはある程度の「センス」が付き物ですが、それを言い始めたら僕は指導者として「いる意味」がなくなりますから笑、請け負った以上はできる限り指導を入れます。
僕には、彼らの成長を促し、見届ける義務があるということ。
心苦しいこともありますが、そうしてなんとか壁を乗り越えた姿を見た時に、

と、そう思えるんですよね。
厳しい先生だった高校教員時代は、本当に感動して、生徒から泣かされたものでした。
- 英語だって
- ダンスだって
偉ぶりたいだなんて1ミリも思っていないのに、「先生」とはただ優しいだけでは成り立ちませんから、演じる必要がある時もありました。
その人の弱さに触れ、その成長を見守ること。
毅然とした態度で指導ができる人こそ、僕が求めている教育者像だったのです。
おわりに
人に何かを教えるというのは、
- 技術だけでも
- 優しさだけでも
成り立つことではありません。
そこに厳しさや愛がなければ、僕の教育はずっと薄っぺらいままです。
僕はいつでも生徒のポテンシャルを信じています。
だからずっと「教育者」でいられるのかもしれませんね。
それではまた!
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