こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
いつも教育の話ばかりになってしまうのは、僕の「教育熱」があるからですかね。
これでも一応「高校教師」なので、毎日のように「学校で思うこと」があるのです。
さて、本日は生徒と討論する機会がありました。
生徒の言い分は「クラスTシャツを買いたくない」というものです。
これはどこの学校、どこのクラスでも良くある光景ですので、結論から申し上げますと「本人の自由」であります。
しかし、
- 教師になってから見る学校やクラスのあり方
- 教師同士の関わり合い
などから、本人の自由はあってもそれは少し違うんじゃないのかなと思ったのでした。
今回はその点について深くお話ししていこう思います。
いろんなスタンスがあっていい
まずは「人それぞれにそれぞれのスタンスがあってもよい」と認めること。
これを前提にする必要があります。
クラスTシャツとは、もちろん「買うも買わないも自由である」ようなTシャツです。
当の生徒と話していると、出せるお金がないというわけでもなさそうでしたが、
「自分のバイト代が消えるのが嫌だ」
と言うことなので、確かに無理して支払う経費とは言いづらいものでした。
- 文化祭が楽しくて仕方ない子もいれば、つまらなさすぎてずっとゲームをしている子もいる。
- 体育祭で熱くなる子もいれば、全く体を動かしたくない子もいる。
教師である僕の立場としては、どの生徒のスタンスも正しいし、彼らに対して否定的になってはいけないという思いがあります。
ただし、これが難しい。
なぜなら、同じ集団にいるという現実は変えられないからです。
30〜40人のクラスサイズを持っていて「〇〇をしたくない」という生徒がいても、それは仕方のないことです。
しかし文化祭や体育祭をやるとなった時に「どの姿勢であっても認めてあげるよ」というスタンスでいますと、今度はコントロールが難しくなってくるわけですね。
「全てを認める」とはキレイに聞こえますが、一方で舵を取っていかないと自由の度が過ぎてしまう。
何事も適度にバランスをとることが大切だと思えば、「みんな自由で、みんないい」で学校が回っていくわけがないのです。
次は他の観点からも見ていきましょう。
「組織に属する=従順であるべき」か?
僕も組織の一員として、この考え方にはいつも悩みます。
僕は「自由を求める思考」が強いですので、学校という組織の中での働き方に若干の息苦しさを感じています。
最初こそ「右にならえ」が心地よかったのですが、地位や権力を手にし始めますと笑、
- 「もっとこうしたい」
- 「こうすればもっといいのに」
と思うようになってきました。
生徒についても、みなさんは同じように「いいから右にならえ」と言うでしょうか。
結論は「NO」でしょう。
学校やクラスという組織にいても、ある程度自由が保障されているからこそ「クラスTシャツに何の価値もない」と思うことは、決して間違った考え方ではないのです。
僕は生徒に「クラスTシャツを買わなければいけないのだ」と押し付けることは絶対にしませんでした。
僕ら教師たちだって、
「このマニュアル通りの授業をし、雑談やムダ話はナシにして、淡々と進めてくれ」
と言われたことはありませんし、言われても僕はやりません笑。
- それぞれのキャラクターがあって、
- いろんな先生がいるからこそ
学校が面白くなっていきます。
組織の中にいても、ある程度のアソビがあっていい。
余白の部分がないのであれば、それは機械みたいなもので、事務的な仕事になってしまいます。
生徒たちの学校生活も一緒で、「生徒たちの考えにもいろんな視点があっていい」と思います。
まだ未熟だからこそ「その考えを否定するつもりはないよ」と言ってあげるのも、彼らの自己肯定感や今後の人生のためにも、また大切な仕事だと思っています。
では僕はどのように考えているのか。
余談も交えながらお伝えします。
余談:お弁当注文事件
同僚の経験をお伝えします。
同僚の先生が若かった頃、入試選抜でとても怒られたことがあったそうです。
高校の先生たちは、2月になると中学生の入試の準備のために、死ぬほど働きづめになります。
ミスが許されないからですね。
そんな中、入試期間中は「お弁当」が出ます。
「出る」と言っても自分でお金を払ったものですが、何人かの先生が「弁当一覧」を貼り出して下さり、
- 「僕はAかなぁー」
- 「私はBだなぁ!」
と和気あいあいと「弁当選び」が行われます。
当の同僚はどうしたのかと言いますと、お金が返ってくるということもあり、
「俺は弁当を頼まない」
と、当時は決め込んでいたようです。
すると指導でお世話になっていた先生に呼び出され、かなり強めに説教されたのでした。
その時に言われたことは、
「チームの一員として、そうしたイベントには参加しなさい。
確かに不要なことかもしれないけれど、誰かがこうしてわざわざ企画してみんなに呼びかけているんだ。
それに対して『俺は関係ない』というスタンスだけはとるな。とても失礼だぞ」
というものでした。
僕はこの言葉が、組織やコミュニティにいる人にとっては、あるいは「社会」という場にいる人間にとっては、とても深い意味を持っていると思いました。
結果論ではありますが、実は僕も「この先生の意見に近いスタンス」を持っています。
僕の場合は、失礼だからというよりもみんなでワイワイして楽しみたいという気持ちのほうが強いですけどね笑。
いずれにせよこの考え方は、組織においてとても大切なことだと思っています。
スタンスの持ち方が大切
「クラスTシャツを買いたくない」という生徒に話を戻してみましょう。
- 本人の自由であるし、いろんな考え方があっていい。
- 組織にいるからと言って全てに従う必要はなく、ある程度のアソビはあっていい。
この2点を取り上げた時点で、その生徒の逃げ切りは確定したように思えます。
しかし「お弁当注文事件」を例にとってみると、もっと細かいニュアンスの「組織員」としてのあり方が見えてきます。
- クラスTシャツは買いたくない。
- 文化祭は出たくない。
- 体育祭もかったるい。
- 勉強もめんどくさい。
- ルールなんて守りたくない。
- 不要だと思うからお金を払いたくない。
確かに何ひとつとして、間違ってはいません。
では1つ聞いてもいいですか?
「一体君は何をしに学校へ来て、なぜこのクラスにいるんだい?」と。
学校という場では「だるいから、やりたくないことはやらなくていい」と思うことは自由ですが、すると本当に「何もかもやらなくていい」ということに、簡単に置き換えられてしまうのです。
だから僕は担任として、
「その考え方を否定はしないけど、学校という場はそういう場所ではないよ」
と伝えたのでした。
その「自由さ」がまかり通ってしまった場合を想像してみますと、
「よーしみんな。クラスTシャツを買うんだけど、買いたくないよってやつは後で俺に言ってくれ!注文数を減らしておくから」
という言い方になってしまい、極端な話をすれば文化祭当日に、
「数人しかクラスTシャツを着ていない」
という最悪な状況になってもおかしくないのです。
それって、とても残念じゃないですか。
僕は、学校にいる限り「クラスTシャツ」のようなものは、組織の必要経費だと思っています。
「本当に無駄で、明らかに高額なもの」として、クラスTシャツを買わせているわけではありません。
- 学年費の中にだって、
- 部費の中にだって、
払いたくないものがあっても、「それは仕方のないことだ」と割り切る必要があるのです。
それらは適当に予算に組み込まれているわけではないですし、学校や部活、クラスの運営上必要だと思うから買うのです。
先ほどの「お弁当注文事件」に関しても、僕は似たような感覚を覚えています。
個人の感覚としては、確かに1,000円の弁当を注文することは無駄でしょう。
「そんなお弁当を買うくらいなら自炊してきたものをもってくるよ」
と思うのも自由は自由ですが、組織に所属するものとしてのスタンスとしては間違っていると僕は思います。
ここの按配は個人に委ねられますけどね。
例えば、
- 毎週の飲み会を、組織員としての必要経費と捉えるのはどうなのか?
- 高額だけれど誰も使うはずのない機械を買う案があったとして、お金をカンパするのはどうだろう?
- あの先生の機嫌をとるためにプレゼントを買っておくことは、果たして必要なのか?
と「極端に悪い例」もあるかもしれませんので、その場合は各自判断をして切っていきましょう。
ひるがえって「お弁当を注文すること」に関して言えば、
「細かいことをグチグチ言ってないで、別に買ったらいいじゃないか」
と思うのです。
そのスタンスを持っておくことで、
- 組織としてチームとして楽しめますし、
- 一体感も生まれます。
それを、
- 「無駄だから」
- 「馴れ合いとかいらないから」
- 「損失だから」
と「拒否する姿勢」を持つことは、組織に属している割に何のメリットも生み出しません。
1,000円でお弁当を買うのではなく、仲間との時間や絆、一体感のための経費と言われたら、みなさんは引いてしまうでしょうか。
そうだとしても、僕はやっぱりお弁当を買うほうのスタンスでいたいですかね。
みんなでワイワイ頼む状況を、先生たちだって楽しんでいるのですから笑。
おわりに
担任のお仕事の1つに、「舵とり役」があります。
「みんな、クラT買うでしょ?」という半強制のようなスタンスでいなければ、何人かの子は本当に買わないことになるでしょう。
だから「学校」や「クラス」という組織として、イベントや青春を楽しむために、担任の僕はこのスタンスを持っていたいのです。
- みんなでTシャツを買って、
- ワイワイやって、
- 無駄そうで実は無駄ではないであろう、様々なイベントを経験していくこと
が、学校生活のあり方だと思うからです。
お弁当を注文するかどうかという話も、遠いようで実は近い話だと思っています。
何もかも「無駄だからやらない」「別にやらなくてもいいんでしょ?」と思うことは正論に聞こえるかもしれませんが、やっぱりそのような人とは関わりづらいですし、周りに悪い印象を与えてしまいます。
「行き過ぎたスタンス」を持つことは、自由きままというよりも「自分勝手」というイメージがあり、社会でのコミュニケーションに支障をきたしかねません。
仕事だって、人との関わりがあってなんぼです。
仲良く馴れ合おうと言うつもりはありません。
純粋に仕事を楽しもうという気持ちがあれば、何が無駄で何が必要なのかがわかってくると思います。
それを見極めていくのもまた、社会勉強ですね。
そんなことを感じた日でした。
これからも「円滑なコミュニケーション」のために、積極的に必要経費を払っていこうと思います。
それではまた!
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