こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
学校の先生をしていますと、生徒の中にも性に関する悩みを持った生徒もいて、こちらとしても時代の流れ的に「表現が難しい部分」があります。
僕はワンピースのゾロという三刀流のキャラが好きでして、
- 男らしい
- かっこいい
- 渋い
- 漢の中の漢
と、僕が憧れる「漢」の理想像、あるいは「完成形」と言っても過言ではありません。
しかしひとたび教育現場に出れば、「その表現」を極端に出し過ぎてしまいますと、
- 「男は強くなければいけない」
- 「女の子はかわいくなきゃ」
- 「曖昧な性ってマイノリティだよね」
と言った「攻撃的な表現」になってしまいかねません。
現在は表現方法に十分留意しながら、その手の話題を話すことが多くなりました。
今日は僕なりに考える「性」について書いていこうと思います。
マイノリティは昔からいた
この「マイノリティ」という表現自体にも、苦言を呈する人がいます。
- 「何をもってマイノリティなのか?」
- 「まるで弱者扱いされているみたいじゃないか?」
と思う人もいるためです。
僕が聞いた言葉でとても印象的だったものは、
「マイノリティは昔からいた。ただそれが徐々に表面に出てきただけだ」
というものです。
便宜上、マイノリティという表現を使わせていただきますが、「性に悩む人たち」は昔からずっといたはずなのに、気づかれていなかっただけだと指摘するものです。
社会全体が、
- 「男のあり方」
- 「女性のあり方」
と、
- まずきっぱりと「性」を二分化してしまい、
- かつそこにステレオタイプを付与した
からです。
例えば、僕のように「ザ・典型的オトコ」を目指す人間にとっては、心地よい世界かもしれませんが、
- かわいくありたい。
- 化粧をしてみたい。
- 色白でいたい。
- 筋肉をつけたくない。
という願望を持った男性には、一昔前であれば今以上に生きづらい社会だったのだと思います。
(かっこよくありたいと思う女性、どちらの性の性質を持ち合わせている人たちも、同じような気持ちだったと思います)
しかし時代がようやく追いつき、「謎の偏見や固定観念」は少しずつ和らいできました。
白か黒かではなく、いわゆる「グレー」の存在が認知されてきたのです。
もちろん、いまだに難しい問題も残っていますが、以前よりは改善されつつあり、それぞれ個々人が好きなように生きて行くことを認め合えるような、そんな社会に向かっていると思っています。
大切なことは、それぞれの価値観を認め合い、否定しないことです。
こうなると、もはや「マイノリティ」という表現はなくなったと言ってもいいでしょう。
- 男の中にも様々なタイプがいるし、女性の中にも様々なタイプがいる。
- どっちともとれない性自認をしている人もいる。
- 体と脳の違いがある人もいる。
「このタイプね」というタイプ分けができなくなった時代が到来したのです。
だからみなさんも、「ありのままの自分」であればいい。
それを周りが、社会が、認めていかなければならないのです。
行き過ぎた主張は攻撃的になる
先日、ABEMA TVで「フェミニスト」についての議論がありました。
この話もまた複雑でして、要は行き過ぎた「〜ist」がいるのだというお話です。
どの話題においても、「極論」はよろしくありません。
なぜなら、自分の正義を振りかざしていることが多いからです。
冒頭で述べた、僕の好きなキャラクターである「ゾロ」の生き方は、僕個人としてはとても好きな、尊敬している生き方です。
一方で「サンジ」というキャラクターは紳士的で女性に優しい男性像をもっており、友人と話していると「理想の男性像」が、個々人でだいぶ違っていることに気づきました。
この考え方や理想を、とにかく押し付け合わないこと。これが平和的解決なのかなと思います。
- かっこよくありたい男であってもいい。
- 筋肉マッチョになりたい男であってもいい。
- ストリート系ファッションが好きな女の子がいてもいい。
- 美意識の高い女性であってもいい。
- 筋トレ系女子でもいい。
- フェミニンな男の子でもいい。
- 男女どちらとも言えない性感覚を持っていてもいい。
つまり、なんでもいいのです。
昔は「男ならメソメソするな!」「女の子らしくおしとやかに」と、言われていたものでした。
これは、自分の理想が正義だと思い込んでいるからこそ、出てくる言葉だと思っています。
「フェミニスト」に対して「なんか過激派だよな」と思う人が出てきてしまうのは、その派閥(?)の中に、例えば「女性のほうが男性より偉い」と極端で乱暴な意見、一般化した意見を述べてしまう人がいるからです。
自分が掲げる理想は、自分の中にとどめておけばよいのです。
そしてその理想に向かって、「自分はこうありたい」と強く願い、頑張って自分を磨いていくことが大切なのです。
だから「フェミニスト」といった、
- 派閥
- 枠組み
- 定義
などは実際はなくてもよくて、それぞれが胸の内に「求める理想像」を抱き、邁進していけばよいのでしょう。
自由すぎてもいけない
昨今ではLGBTQと言ったいわゆる「マイノリティの方々の人権」を主張する一方で、悩んでいる人たちからも「そうした当てはめ方はやめてくれ」という意見があります。
LGBTQのような「ラベル貼り」はある意味「マジョリティである側」の人間が、無意識的にマイノリティに対して行なってしまっている行為でもあります。
当事者である方々からすれば、本音は「そんなもの、そもそもないのだ」と言いたいのかもしれません。
もちろん、そうした「悩んでいる人」がいるという事実の認知度を高めるために、LGBTQという言葉が役に立つこともあります。
また社会的地位が低いため、その権利を奪還するために運動している方々もいますので、一概に否定することはできません。
いずれにせよ今はまだ途上段階であると思いますから、様々な意見が出てくることは仕方のないことなのかもしれませんね。
さて、ただ一方でそのように「自由を掲げること」も、極論になると危険性を帯びてきます。
「自由だからなんでもごちゃ混ぜにしてよい」という発想ですね。
男女という「生物学的な性」が存在している事実は間違いなく、僕はある程度の線引きは必要だと思っています。
- 男女のトイレ(または多目的トイレ)
- 女性専用車両
- 銭湯やサウナ
これらが(基本は)男女で分けられているからこそ、その中で自由に振る舞うことができるということもまた事実だからです。
- 自由を求めすぎたり
- グレーゾーンをいいことに一緒くたにしてしまったり
しますと、結局また信念の押し付け合いがスタートして、「自由という名の正義」(と思い込んでいるもの)を振りかざしてくる人が出てくるのです。
枠に当てはめてもいけないですし、「線」を全部取っ払ってしまうのもよくない。
この「釣り合いを保つことが難しい天秤」をバランスよく保てるように、社会全体で取り組んでいくことが必要ですね。
おわりに
まだ無知で未熟だった頃は、このように「他人のあり方」を否定しては「自分の正義」を押し付けていたものでした。
では「今はそうではないのか?」と言いますと、難しい時もあります。
だいぶ柔和になったなとは思いつつも、
- びっくりするような格好を街で見かけたり、
- 「この人と自分は合わないなぁ…」と思ったり、
- 「もっと男らしくしてほしいな…ハッ!いけないいけない」
と思ってしまう時もあります笑。
人間は「自分の信念」に基づいて行動している分、一瞬「これは受け入れがたいな」という拒否反応が出てしまう時もあるものです。
ただ、それは自分の中にはあってもいいものなのかなと思います。
そうして自分の価値観や信念とぶつけ合わせてみることもまた重要なことです。
相手をすぐに否定せず、
- 「そういう生き方もあるのか」
- 「自分とは違った感覚だけど、とても興味深いな」
- 「僕は絶対にやらないと思うけど、そういうのがあってもいいよね」
と、人との違いを認めることもまた、社会を生きていく上で大切なスタンスなのです。
「対立構造」や「正義のぶつけ合い」をしていては不毛ですし、終着点は見えてきません。
それぞれが思う「かっこよさ」「かわいさ」「あり方」「生き方」があっていい。
極端に走らず、自分を磨くことに専念して、居心地の良い社会を目指していきましょう。
それではまた!
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