こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、ホステルでインド人と話した時に、政治の話やら何やらの話になりました。
僕はコロナ禍の時にテレビを見過ぎていたため、その時間はムダだったと考えてからというもの、テレビを見なくなりました。
彼らと話していた時、
と言われました。
僕は、
と説明をしました。
今日は「何でも知ってること」が正義かどうかについて書いていきます。
知識と情報は別物
僕はテレビを見なくなってから「幸せ」になりました。
ムダなゴシップも入ってきませんし、時間を浪費することもなくなりました。
ホステルで会った彼は、朝に新聞を読んでいました。
もちろん、新聞やテレビを全否定しているわけではありません。
国内や世界の情勢を知っておくことは、別に悪いことだとは思わないからです。
ただ、僕が彼に問いたかったのは、
ということでした。
その情報を取り入れることで、
- 仕事に役立つのか
- 投資に役立つのか
そうした点を考えて、
- 意味があるのなら情報を取り入れればいいし、
- 意味がないのにダラダラと情報を入れるのなら価値はない。
その情報をもとに他人と討論をしても良いですが、それで彼の人生が大きく変わるとは思えませんでした。
誤解を恐れずに言うのであれば、僕だったら、
そう思うのです。
彼にとっての趣味なら何も言いませんし、他人のやっていることにいちいち口出しはしません。
各々が考えて行なっている行動なら、それでいいからです。
ただ「その情報を知っていること」に応用が効かないのであれば、それは「単なる情報」であり、いつでも調べて入手することができます。
知識や経験として持っているのならば、つまりそこに応用があるのならば、「手段」として情報を得ることは必要なことだということです。
それをわかった上で、彼がモノを言っているのかどうかが大切だと思ったのでした。
本当のところはわかりませんが、僕は典型的な、
- 物知りでありたい
- 世間のことを知っていたい
というようにしか見えませんでした。
最終的なことは本人のみぞ知ることですし、その情報をもとにしていろいろと考えることも大切なことです。
ただ、むやみやたらと情報を取り入れて「知っているのだ」と言う必要はありませんので、うまくバランスを取る必要がありますね。
何でも知ろうとすることは必要か?
僕には知らないことがたくさんあります。
先生をやっていた時、それが「先生として良くないことだ」と思っては、必死にテレビを見て世間に追いつこうとしていました。
インドの彼からしても同じで、
という先入観にとらわれていたようです。
僕自身も以前、そう思っていましたので、
と思いながら聞いていました笑。
僕がここ数年で思っていたことは、
という事実があるということです。
情報を取り入れることで応用が効いたり、人のためになることであれば、僕は積極的に情報を取ってもいいと思っています。
しかしそれと同時に、「知っておいたほうが良い常識」とは何なのかと、疑問に思うことが多々ありました。
と言われたこともありましたが、「そんなこと」とは一体どんなことなのでしょう。
僕は他人にこの言葉を使ったことは、一度もありません。
- それを知ることで、一体何を得られるのか
- どこから取り入れた情報で、どんな役に立つのか
決して反論しているわけではありません。
昔の自分自身に問いたいくらい、純粋な「疑問」なのです。
常識とは、あくまで「自分(たち)で作り上げたルール」のようなものだと思っています。
知識をつけようと努力することは良いことです。
ただ「常識だよね」という感覚は、「マジョリティの考え方をすれば」と言い換えているだけに過ぎないのです。
そこに果たして意味はあるのか。
僕はコロナ禍で考えた時に、
そう思って、テレビから情報を得ることをやめました。
知識(情報)のマウント合戦に終わりはないため、
- 本当に自分が必要としている知識
- 誰かのためになるような必要とされている知識
を取ることが、僕にとって大切なことなのだと思うようにもなりました。
何も知らなくていいとは思いません。
でも、
- 適切な時に
- 適切に取り入れること
が、何より大切なのではないでしょうか。
経験として知識にすること
僕が海外に出て思ったことは、
ということでした。
もちろん、メディアから取り入れる情報も今の時代では、取捨選択していけば確かなものです。
ただ、世界史を学んだり言語を学んでいたりした僕ですら、世界に出てみれば衝撃の連続でした。
悪く言うつもりはないのですが、
「日本のあれこれを知っている外国人」
と会うこともありましたが、日本に住んでいた僕からすれば、
と感じました。
現実とは必ず「ズレ」があるからですね。
それはつまり、僕自身にも跳ね返ってくることです。
知っていたつもりだった国の文化や人々は、実際に行って会うことで理解できることばかりだったからです。
直接得る情報を「一次情報」と言いますが、やはりこの一次情報に勝るものはありませんでした。
二次情報についても、それ自体を否定しているわけではありませんし、日本のことについてたくさん知っている外国人と出会うと嬉しいものです。
しかし「本当の意味での知識」とは、自分で経験したり感じたりすることが圧倒的な力になるのです。
最初のホステルの彼に対しても、嫌味で言っているわけではなくて、
- 自分の生活と密接に結びついていたり
- 本当の意味で経験として糧になっていたり
するかどうかを問いたいのです。
事前に知識で武装しても良いですし、そのほうが経験に活きることもあります。
意味がないかどうかは、僕が判断することではありませんしね。
それでも間違いないのは、「経験をすること」なのだと感じています。
確実な知識として定着することは間違いありませんし、必ず人生の糧になります。
常に情報を取り入れてもいいですが、果たしてそれがどういう意味を持っているのか。
その点について考えながら、勉強していきたいですよね。
おわりに
ふと討論したホステルのインド人。
おかげさまで、こうして僕もいろいろ考え直すことができました。
ただ、
「本当に大切な情報を優先すること」
は、これからもずっと変わらないと思っています。
それこそが大切なことですからね。
一方で、「何も知ろうとしないこと」もまたよろしくありません。
経験と知識をバランスよく混ぜ合わせながら、豊かな人生を歩んでいきましょう。
それではまた!
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