罪悪感を抱えながら生きていく必要はない【聲の形を観て】

読書

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

アメリカに来てゆったりしていた先日、なんとなく『聲の形』が観たくなったので早速観てみました。

簡単なあらすじは、耳の聞こえない女の子をいじめてしまった主人公が、悩み苦しむ様子を描写しているような、見るのにはちょっとキツいアニメの映画です。

僕も先生をやっていましたので、生徒たちの人間模様が分かったとしても手出しできないことがあり、難しい局面はたくさん見てきました。

今日は「人生においてツラいこと」について書いていきます。

何か後ろめたいことをしてしまうことは、人生で必ずある。その十字架を背負う必要はない。いくらでもやり直せるのだ。

本当に聞こえていないのは誰?

僕がこの映画を見て感じたことは、「耳の聞こえない女の子」ではなく、イジメていた側の男の子のほうが、心をシャットアウトしていたということでした。

もちろん「耳が聞こえない」という意味では彼女のほうに焦点を当てやすいのですが、実際に周りのみんなの「聲」を聞くことができていなかったのは「主人公の彼のほう」だったのだと思います。

この現象は現代社会で頻繁に起きていることであり、とても深刻な問題です。

特に教員をしていた時代は、どんなに「声」が聞こえていても、

全くこちらの想いが伝わらない

という生徒はたくさんいました。

事情は様々であり、

  • トラウマからの拒絶反応
  • そもそも人の話を聞いていない
  • 聞こえているのに全て拒否してしまう

など、多岐にわたって「聞かない/聞こえない」生徒がいました。

この映画の大きなポイントは、「身体的な障がい」の話をしているだけではなく、もっとメンタル面の抽象的で重い話をしているということでした。

「耳の聞こえない人が、人間関係の障壁を乗り越えていく」

という内容よりも、僕個人としては、

「彼の『耳(=心)』がいかに聞こえるようになるのか」

ということに、焦点が当てられているように感じました。

彼がトラウマを背負いながら生きていく様(さま)が描かれているのですが、

なるほど。生きていくのがツラい時は、人の声が聞こえなくなるのだな

と感じましたね。

耳の聞こえない彼女の頑張りもひしひしと伝わってきますが、やはり彼の「もがき苦しむ描写」もまた、僕ら視聴者の胸を打ちます。

人それぞれにある「トラウマ」とは、人の力を借りながらでも、自分の力で超えてゆくしかありません。

時間もかかるでしょうし、その間は『耳が聞こえなくなる』こともあるでしょう。

誤解を恐れずに言うのであれば、「聞こえない」ことそれ自体よりも、こちらのほうが治すのによっぽど時間がかかるのかもしれないということです。

それくらい、現代の深刻な問題なのだと思っています。

『聲の形』では、本当の意味で「耳の聞こえない状態」が描かれていると思う。その精神的な障がいを乗り越えるためには、とても時間がかかるのだ。

昔の自分は何もできなかった

僕は小学生の頃、体も小さかったためによくイジメられていました。

ドラマで見るようなしんどいイジメではなくて、軽く標的にされるようなレベルでしたので、この映画のようなものを見ますと、

なんてツラい描写なんだ…

と思うと同時に、とてもリアルであることが伝わってきました。

大人の視聴者なら誰でも(かどうかはわかりませんが)、

おい!そこで言い返せ!
何やってんだ!やり返せ!

と言いたくなる場面があるかと思います。

僕も当時はとても弱くて、ただただ、

  • 省かれること
  • イジメられること

怖くて仕方なかったことを覚えています。

大人になったって、人間関係とは難しいものでして、

なんでそこで〇〇しなかったの?!

と、第三者なら簡単にいうことができても、当の本人と相手との関係とは複雑であり、一筋縄ではいかないことがしばしばあります。

僕も今であれば柔軟に対応できることがあるかもしれませんが、

  • ずっと昔
  • つい数年前

は、それぞれ、

  • 弱かった
  • 未熟だった

こともあり、この映画に出ているキャラクターたちの「不器用さ」を否定することはできませんでした。

ただ、だからこそ今の「強い自分」がいると思っていますし、

  1. 考えて
  2. 努力して
  3. 経験を積むこと

で、変わることができました。

誰だって、人生の最初のほうのステージでは弱いものです。

それを踏まえた上で、少しずつ考えながら改善していけば良いのです。

以前の自分は本当の意味で弱かった。少しずつ大人になるにつれ、多くの経験を通して強くなっていったのだ。

いつからでも変わることができる

主人公の男女2人は、どちらも強く「」を意識しますが、それを必死に乗り越えようと若いながらももがいていきます。

「人のしんどさ」には程度があり、比べられるものではありません。

僕は僕なりにしんどかったこともありましたし、また未熟だったこともありました。

自分を変えてゆくにはとても時間がかかることが多く、それらを超えて人は成長していきます

劇中の彼らもそれぞれの「十字架」を背負いながら、自分の命と向き合っていました。

この映画から感じたことは、

誰もが十字架を背負っていると感じているんだな

ということ。

僕自身も、過去の十字架を背負っている「つもり」になっては、必要以上に悩み苦しんだ時期がありました。

しかし、

その必要はないのだ

と思えたのは、自分が変わることができてからでした。

例え「どんなに小さなこと」でも構いません。

自分の中で、

プラスになることができた

と思えたことが1つでもあれば、それは変われたことになるのです。

  • 簡単なことは、過去を悔やみ続けること
  • 難しいことは、変わろうと努力すること

です。

僕は前者でしたし、今でも「前者のまま変われない人」を多く目にすることがあります。

後者の「難しい」とは、そのプロセスが難しいというよりも、

  • 時間がかかったり
  • 気付けないままだったり

する、ということです。

「変わろうと努力すること」それ自体は誰にでもできることであり、いつでも始めることができます。

時にしんどいこともあるのは、誰だって一緒です。

環境や人間関係で違いはあるかもしれませんが、日本では「頑張れる余地」が残されています。

劇中でも、彼らが「完全に飲まれてしまう場面」が幾度となく描写されていますが、それでも必死に前を向いて現状を変えようと努力している姿は、とても不器用で美しいです。

誰だって人生は一度目なのですから、不器用だって構わないのです。

僕もその「不器用さ」を受け入れてから、必死で変わろうと努力することができるようになりました。

30代になってから気づいたことや始めたことはたくさんありますが、何か新しいことを始めるのに遅すぎるということはありません。

劇中の彼らが変わっていったように、僕らにもいくらだってチャンスがある。

その事実を認識した上で、しんどいことも乗り越えていきましょう。

大丈夫です。

人はいつだって、変わることができますから。

誰だってしんどい時やツラいことはある。不器用でも構わないから、変わろうと努力してみよう。そのタイミングに遅いということはないのだから。

おわりに

久しぶりに鑑賞した映画。

とても胸にくるものがあったので、記事に残すことにしました。

今となっては以前より強くなった僕ですが、誰でも小さな時は(あるいは大人になっても)悩みや障壁があるものです。

それらを乗り越えることができるのは、変わろうと努力することを始めた人だけ。

しんどいことは必ずやって来ます。

それでも負けないように、日々成長して強くなっていきましょう。

それではまた!

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