とにかく熱を入れて教えてしまう自分がいる理由【目の前の人に全力】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

元高校教員としてオンラインで授業をしていましても、現場の頃のように熱を持って英語を教えています。

英語に限らず、

  • 投資
  • 生活
  • 筋トレ
  • 食生活
  • 海外旅行

など、あらゆる面から僕がいろいろと熱を込めて教えるのは、

自分の経験が誰かに届いたらいいな

と思っているからでもあります。

特に “こと英語” に関して言えば、誰もが通るであろう、

  • 文法の悩み
  • 勉強の仕方の悩み

などを聞きますので、より具体的な対策をお伝えすることができますね。

今日は僕が熱を入れて教えていることについて、みなさんとシェアしていきたいと思います。

僕が熱を入れて教えてしまうのは、自分の知識や経験を知ってもらって、人の役に立ちたいからだ。その熱はずっと冷めないだろう。

教員時代の熱の入れ方

僕が教員になったのは、その「熱量の高さ」からでした。

中高時代から人に教えるのが好きだった僕は、大学入学後に即個別塾で教え始め、その後非常勤も経験しながら大学院に通います。

  • 個別塾でバイト5年
  • 非常勤講師で数校経験を2年
  • 学部、大学院ともに教育学部

という、極めて気持ちの悪い「教育フリーク」です笑。

教員を目指し始めたのが中学生の時でしたから、それだけ憧れていた職業でもありました。

現場は苦しくも楽しく、いろんなことを学ばさせてもらいました。

一番、身に染みたことと言えば、

ただただ熱量だけあってもダメだ

ということでした。

漫画ワンピースでも、ドクター・クレハがこのようなことを言います。

いいかい 優しさだけじゃ人は救えないんだ!!!

人を救いたきゃそれなりの知識と医術を身につけな!!!

腕がなけりゃ 誰一人救えないんだよ!!!!

いわゆる「3年B組 金八先生」のようなドラマのような先生はほとんどいませんし(あれはあれで好きです)、あれだけ多くの生徒がいるのに、時間外までケアすることは基本的にありません。(僕も僕の同僚も、時間を費やした時はありましたが)

これも行き過ぎてはいけないのですが、要は、

  • 生徒に寄り添う部分
  • 信頼に足る知識と経験

の両方が必要なのですね。

僕は若かったこともあり、なんでもかんでも勢いで乗り切ろうとしていました。

先生に対する信頼が生まれるのは、「空回りした熱量」によるものではありません。

しっかりと経験と実績を積んでいくからこそ、その「熱」に本物の「アツさ」が帯びてくるのです。

教員時代は、若いこともあってか勢いや “アツさ” だけでなんとかしようとしていた。しかしそこには、裏付けされた知識や経験も必要だったのだ。

変わらない熱量

さて、個人事業主を始めた僕はどうなったでしょうか。

あいも変わらずパソコンの前で思いっきり熱量を持って、生徒のみなさんに自分の持てる知識と経験をお伝えしています笑。

僕の一つの形としては、

いかに多くの人に、自分の成功や失敗を伝えるか

ということが、目指すゴールでもありました。

別にいいのです。

せいじの考え方は合わない
言っていることが理解できない

そう思う人は気にしなくていいですし、そもそもそんなものを見ている暇があったら、もっと自分を磨いたり自分が師事したい人を探したりすればいいのです。(僕もそうするようにしています)

僕は人に自分の考えを押し付けることはありませんし、あくまで、

こういう考え方もある。あとの判断はあなたにお任せする

というスタンスをとっています。

批判するとしたら、システムや理不尽な世の中のあり方、あるいは、

こういうふうに生きていったら、当てはまる人はしんどいんじゃない?

という提案程度で、“特定の個人” を(わかるように)猛烈に批判したり否定したりした(する)ことはありません。

あくまで授業でも、自分のしてきた学習や友人の英語話者から学んだことをなぞってお伝えしていて、研究していた際に読んだ学術書からなど引用していたりします。

自分の知識や経験は、伝えて共有することが大事だと思っています。

そうやって、僕も「社会から教わってきたこと」が多々あったからです。

当然、誰しも間違えることもありますから、押し付け合うのではなくて、

ごめん、間違ってるかもしれないからちょっと調べさせて

と、僕は伝えるようにしています。

若かった時の「熱量ありき」の指導ではなく、客観的なデータ冷静さも大事だということですね。

熱量は変わらないまま教えていますが、そこに確かな経験や情報も大事だということ。

この按配を保ちながらオンラインで伝えていたためか、

多くの生徒さんから信頼されるようになったな

と感じていますね。

学校を離れた後でも、いまだに教育に従事してしまう。しかし、教員時代とはまた違った形で熱を込めて教えるのだ。

人は変わらないけれど…

こうして熱を持って伝えることに対して、

それって意味なんじゃないの?だってせいじは「人は変わらない」って言ってるじゃない?

といった意見もあるかと思います。

僕が教育に携わるのは、少しでもそこに「」を見出すからです。

だからそこに「光」の見えない人も、確かにたくさんいらっしゃいます。

失礼かもしれませんが、やる気のない人には教えることはできません。

例えばお子さん(小学生や中学生など)が授業に来て、

  • 聞く気がない
  • 隠れてゲームをしている

などがわかった場合、注意して「次はない」と指導するようにしています。

みなさんはどうでしょうか。

みなさんが一所懸命伝えていることを「聞く気がない」という人に、あえて力づくで伝える必要なんてありませんよね。

一方で、一所懸命「何かを学ぼうとしている人」には、ついつい教えたくなってしまうものです。

だから僕は、学校ではできる限り生徒に届くように授業していましたし、さらに質問のある生徒には熱心に教えていました。

それは、

  • オンラインになっても
  • 教える対象の年代が変わっても

一緒です。

僕の授業を受けた後で、また別の刺激に動かされて変わる人もいるでしょう。

あるいは僕の言葉を聞いて、その時だけは、

よし!やるぞ!

と思えても、三日後にはもう諦めてしまう人もいるでしょう。

要はもう、「その人次第」なのです。

それ以上、面倒を見ることはできません。

ただ、

  1. 人は他人の言動で簡単に変われない…
  2. しかし伝え続けることは悪いことではない

と思っています。

繰り返しになりますが、そこには一縷(いちる)の「光」があるからですね。

目の前に、

教わりたい。教えてほしい

という人がいるのであれば、ともに歩んでいきたいし、力になりたい。

それが自分の糧にもなりますし、また新たな熱を生むことにもなります。

人は簡単には変われないと知りながらも、それでも教育を続けていくのは、ともに頑張れる仲間を探しているからなのかもしれませんね。

僕は「人は変えられない」ということを知っている。しかし成長したいという人には、いつまでも伝え続けていきたい。そこに教育の「光」があり、ともに歩める仲間がいるからだ。

おわりに

今でも小さなアパートの一室で、全力で英語を教えている僕。

でもそれが生きがいであり、

一緒に頑張っていきたい

という人の力になれているのであれば、幸いです。

今でも教員時代に教えていた生徒と会うことがあり、

ともに戦っているのだなぁ

と思えています。

みなさんは熱量、足りていますか。

それではまた!

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