こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
僕は今までで、多くの人と話す機会がありました。
みなさんは「相談に乗る」という行為について、どう思っているでしょうか。
以前の僕は、先生を始めたてということもあってか、
と思い、何か変えてあげることができないかと、必死に解決策を模索していました。
しかし今は「人は変えられない」という前提に立つことで、生徒にも友人にもあまり深く解決策を探すようなことはしなくなりました。
今日は「相談に乗る」という行為の捉え方について書いていきます。
解決策を探さない理由
多くの人と話すようになりましたが、
- 相談に乗ったり
- 「あぁしたほうがいい」「こうしたほうがいい」と助言したり
することが激減しました。
それは自分の言動の1つや2つで、その人が大きく変わるとは思っていないからです。
こういうことを言いますと、
よく言われます。
しかし僕は、「逆に」考えています。
と。
そんな簡単に話が済むのであれば、
- 悩みを聞き
- 解決策を提示して
「相談」はあっという間に終わってしまいます。
もちろんそうはいきません。
若かりし頃の僕も、なんとか必死に相談に乗っては、そのたびに生徒のことで頭がいっぱいになっていました。
ただ、生徒が抱えている問題は、最後の最後は生徒自身で乗り越えていかなければならない問題だと気付きました。
これは大人に対しても一緒です。
カウンセラーさんたちが感情移入をし過ぎないように、僕ら「一般人」はよりいっそう、深いところまで入り込む必要はないと思っています。
相談に乗ることや、話を聞いてあげることは最低限できることですし、両者間には「2人にしかわからない関係性」がありますから、否定しているわけではありません。
解決策を提示することも悪いことではありませんしね。
- 自分だったらこうするかな
- まずはこれから始めてみたら?
- 違うアプローチ方法をとってみたら?
と、自分の経験則に基づいてアドバイスすることはできます。
しかし僕は、それが限界だと思っています。
逆の立場で考えてもわかるように、あくまで人の意見は参考程度でしかありません。
それなら相談に乗る側も、最低限のことを伝えればそれでいい。
この距離感が大切ですね。
思い詰めてしまわないように
共感性の高い人ほど、人の悩みをまるで「自分の悩み」かのように背負い込んでしまいます。
僕は想像力が乏しいため笑、あまり共感できないということが先生業に「逆にうまく」働きました。
人間関係や進路の相談に乗ったとしても、個人的で(経験に基づく)主観的な意見を伝えつつ、客観的な意見も伝えるようになりました。
特に人間関係だと、
と、経験のある大人ほど言いたくなりますよね。
しかし当人にとっては、それができないから悩んでいるのです。
考えれば考えるほど、こちら側にできることなんて「ほとんどないこと」がわかってきます。
もちろん、
と言いたいわけではありません。
その事実を知った上で、相談に乗って自分なりのアドバイスをするかどうかということです。
と思うことは一見すると「優しくて熱い人」のように思えます。
僕はその考え方が「傲慢な態度」だと思っていますし、まさに以前の僕はこのように自身の立場を履き違えてました。
そうすると思考も「他人の悩みごと」でパンクしてしまいます。
自分が「他人の悩みで悩んで」いたら本末転倒です。
あとは当人を信じて、その壁を自身で乗り越えてもらうことを祈る他ありません。
学校の先生であれば、対する生徒は30〜40人近くおり、それぞれの家庭の状況も交友関係もバラバラです。
彼らの悩みを全て把握して解決できたら、先生はもはや神か何かでしょう。
大切な友人も周りにいますし、彼らの力になれたらと思うこともあります。
でも大切な友人であるからこそ、自分で乗り越えてほしいのです。
僕も「相談に乗ってもらったこと」はたくさんありましたが、
と、僕自身が一番わかっていました。
だからこそ、苦境を乗り越えたときは自信になりますし、自分の経験になります。
「人の悩みは人のもの」です。
自分ごととして考えることも素晴らしいことですが、あまり思い詰め過ぎないようにしましょう。
結果的に救うという形になればいい
- 「人の役にたつ」
- 「誰かのために生きる」
そんなモットーで人生をリスタートさせた僕なのに、こんなことを書いていたら軸がブレているように思えますよね。
と。
僕が伝えたいことは、「バランスの按配」です。
このブログを始めとして、Twitterや英文法の授業など、様々なことを活発的に行なうようになりましたが、僕なりに大切にしている信条があります。
それは、上に書いたように「誰かを救ってやらなければ!」という感覚ではなく、
「結果的に誰かのためになること」
を目指して、活動や発信を続けるということです。
「誰かの何かの役にたつ」とはとても抽象的であり、明確にターゲティングができていないようにも思えます。
しかし僕が幸せにしていきたいのは「自分から遠い人」だけでなく、それ以上に家族や友人のような「自分に近い人たち」なのです。
自分の行動が結果的に誰かを救うことになれば、それで十分なのです。
そのように構えておきますと、自分で思い詰める必要もなくなり、「素の自分」でいながら人と関わることができるようになります。
それは「自分を大切にすること」を意味するからです。
「人の力になろうとする姿勢」を持ちながらも、まずは自分がしっかりと心身ともに健康であること。
そうでなければ人のために活動する余裕なんてありません。
声をかけたり、協力し合っていく形を大切にしながらも、自分のやるべきことにとことん集中することが大切です。
自分にできることは限られていますからね。
ひたむきに、一所懸命になって、その姿や背中を見せること。
その姿勢が結果的に誰かを救うことになれば、それほど嬉しいことはありません。
自分なりのアドバイスや、指導も大切です。
最終的に、
と言われたらそれでいいのです。
自分も同じように救われてきましたから、お互い様なのです。
とても抽象的ですが、
「やれることをやり続けること」
が、結果的に人を救う答えなのかなと思っています。
おわりに
先生という職業柄、生徒のいろんな悩みを聞きます。
適当にあしらっているつもりもありませんし、熱心にアドバイスもします。
ただ、
「そのあとのことは生徒本人に任せる」
というスタンスをとるようにしています。
それが相手を信じることだと思うからです。
大人に対しても同じことですね。
その按配は人によって異なりますし、様々なパターンがあります。
当人との距離感も考えながら、自分が抱え込まないように注意して、「自分のできること」に集中していきましょう。
それではまた!
コメント
Now we are etting somewhere! This is good stuff!
Thank you! I try not to change others’ mind. All I can do is just wish that they would do well. I guess I draw a clear line between them and me.
There is a prayer that helps with this kind of dialema. It goes something like this-
‘Let me find the peace to accept the things I cannot change,
The strength to change the things I can,
and wisdom to know the difference.
Wow! This phrase is very helpful! We should know there are a lot of things we cannot change. Once we know the fact, we feel comfortable because the frustration goes away.