こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
さて、そろそろ2学期が始まるといった手前で、日本はこんな状況です。
学校も「分散登校&オンライン授業」が本格化するということで、今日は立て続けに会議がありました。
僕は会議が大嫌い…というわけでもなく、意外と好きでもあります。
ビジネスマンの間では、よく話題に出てくる「会議の是非」。
早速考えていきましょう。
会議のあり方
いろんな本に書かれたり、成功しているビジネスマンたちがこぞっていうのは「会議は無駄」です。
しかし彼らも、条件によっては会議は必要だと言うこともあります。
「会議のあり方」を考えてまとめてみました。
- 報告会ではない
- 少人数であるべき
- 意見を揉む場である
報告会ではない
昨今では、自分のパソコンの画面上で「掲示板」を共有することで、みんなの前に立って話す必要のないものを書き込み、「見ておいてください」という指示だけで情報を共有することが多くなってきました。
僕はこれに大賛成です。
なぜかといいますと、
- 紙であれば紛失する可能性があり、
- 口頭だと一回きりの伝達なので内容を忘れたり
するからです。
しかし、パソコンをずっと開きっぱなしにしている職場であれば、自席に戻るかスマホを確認するかで、朝の打ち合わせを常に確認することができます。
アーカイブも残りますので「この前そんなこと言ってたかな?」と思ったら、遡って確認することもできます。
一方で僕が思う「会議」とは、こうしたちょっとした連絡や報告をする場ではないと思っています。
自分の時間を奪われ、しかもその間に何もできないような会議であれば、それほど厄介な会議はありません。
「内容のない報告会」だけであるならば、そんな会議は必要ありませんし、「会議」ではありません。
僕は、
- 黒板に「打ち合わせ事項」を書いていた学校の経験
- いちいち全員が口頭で伝えていた学校の経験
もあります笑。
「議論し、課題を見つけて組織を前進させる」
というわけではないような「報告会」なのであれば、デジタルの力に頼ってしまえばよいですし、それは「会議」と呼べないと思っています。
少人数であるべき
どうしても「組織全体に投げなければならない案件」がある場合は、
- 全員(大人数)の報告会
- または情報共有会
で共有するので十分です。
なんどでも言いますが、それは会議という定義に含まれないと思っています笑。
- 議論して生産的な時間にすること
- 課題を克服するために意見を言い合う場
これらこそ「会議」です。
そのためには、会議はできる限り少人数であるべきだと思っています。
大人数でもデジタル機器を使って意見を集約できますが、やはり面と向かって意見を言い合うスピードは、デジタルと違って圧倒的に速いです。
非言語の要素(声色や表情、ジェスチャー)も入ってきますので、相手との距離感を考えながら議論することができます。
少人数だと意見も通りやすく(賛成が得られるという意味ではなく)、その場の多くの人が参加している感覚を得られます。
ただし、少人数であっても全く意見を述べない人もいますし、少人数だから議論が生産的になるとも限りません。
とはいえ、「回ってくるターンの数」を考えてみても、意見は言いやすいほうです。
その後、大人数で意見を共有したければ、複数のグループの意見を後日集約する方法がありますしね。
飲み会でも、大人数が自然と4〜5人のグループになりますよね。
それくらいの数が、人間ができるコミュニケーションの限界なのだと思います。
日本では特に、
- 「沈黙は金」と思っている人や、
- 大人数の前で意見を言うことに抵抗のある人
もいますので、そう言う意味でも効果的だと思います。
意見を揉む場である
先ほどの「報告会になってはならない」という点にも重なりますが、会議とは活性化していることが重要であり、
- 口喧嘩でも、
- マウントの取り合いでも、
- 忖度し合う場でも
ないと思っています。
- それぞれがフラットに意見を述べて、それを真正面から受け止める。
- 意見に対する課題点や、さらに広げられる点を拾っては、議論を深めていく。
「無駄な意見」というものは、1つもないと思っています。
時に的外れなことや、すぐにいなされてしまう意見もあります。
しかし、
- 「あいつ全然話聞いてないじゃん」
- 「わかってないな」
- 「論理的ではないな」
と思うのは、違うと思います。
「Abema TV」という討論番組があるのですが、その中ですら、
- 意見があっちゃこっちゃ行ったり、
- スマートな人かと思えばトピックによって熱くなりすぎてしまっていたり、
- 専門分野ならなんでも完璧に答えられるけど自分の意見はもっていなかったり
と、カオス状態です笑。
そのように、いろんな人が言いたいことを言い合っているのを見ているだけでも勉強になりますし、新しい視点や発見があります。
だからこそ少人数のグループ会議では、積極的に、
- 「僕はこう思う」
- 「こう言う案はどうでしょう?」
と発言するようにしています。
組織の一員として、「アウトプットすること」は恥ずかしいことではありませんし、間違ったり他人と意見が食い違ったりしても、必ず何かしらの考える材料になります。
わからないことがあったら、ガンガン聞き直してもいいと思っています。
会議に「参加」するようにしていれば、自分にとって意味のある時間となります。
最終的な決断は難しい
何人かの先生方と事前に雑談した中で出た意見を、会議の場で「これでもか!」というくらい出してみました。
また、純粋に自分が思う「今後のコロナ禍での教育のあり方」についても意見を述べました。
しかし結果どうなったかと言いますと、
「グループリーダーが持ってきた意見ありき」
みたいな感じで、会議は終わってしまいました。
(一応弁解しておきますと、そのリーダーのことは僕はとても好きですしサシで飲んだこともあります笑)
別に会議で納得がいかなかったわけではなく、「一理あるな」と思える部分もありましたので、「こちらの意見が100%正しい」と決めつけらなかったのも事実です。
トップにあっちこっち、右往左往されても困りますしね。
論理的に説明してもらった上で決まりましたので、後味が悪い結果だったわけではありません。
「AかBか」の選択でしたが、リーダーは最初からAのほうで行きたかったのでしょう。
「あとの責任は自分がとる」と言っていましたし、「自分がこれだ」と思えるほうの意見に寄せたのだと思います。
そこから学べたことは、リーダーは意見を聞いてまとめる役であると同時に、最後に指針を決定しなければならないという重要な役があるということでした。
「僕のBのほうの意見も聞いてほしかったな」と思う反面、難しい立ち回りを求められているなとも感じました。
どちらに舵を切ってもまた文句が集まる可能性はあります。
その時の標的は、トップですからね。
最後は自分の、あるいはグループのケツを拭かなくてはならないのも、リーダーです。
ただ同時に、
「出来レースみたいに結果が決まっている会議であるならば、最初から開かなくてもよかったのでは?」
と思ってしまいました。
しかし、会議は自分の意見を押し通す場ではなく、最終的にみんなが良いと思えるものにする場ですので、無駄な時間だったとは思いませんでした。
リーダーのあり方もまた難しいものなのですね。
おわりに
特に今日の会議で感じたことは、白熱した僕が意外にも頭の中は冷静だったことでした。
熱くなってしまい、始終自分の意見を通すことにこだわってしまっては、本末転倒です。
様々な意見を聞く中で、自分の意見を「多面的に批判できたこと」はよかったと思っています。
会議が終わると、いつもなら「絶対にこっちのほうが正しかったのに!」と怒りながら職員室に戻っていたことが多かったものでした。
今回、
「コロナを楽観的・短絡的に見ればリーダーの意見は正しい。
コロナ禍が長期化した場合を考えれば、やっぱり僕の意見の方が正しい」
と整理できたのは成長でした。
人間にとって100%正しいということはありません。
特に、
- このコロナ禍で指針を決めなければならない
- 2学期が差し迫っていて時間的余裕もない
という時期に、1時間ちょっとで議論を展開し、数人でそれぞれの意見を交わらせてグループの落とし所を見つけられたことは、本当に素晴らしいことでした。
僕は、
- 「この場合はどうするんでしょうか」
- 「僕の意見はここを懸念しているのですが、そこは無視してしまうのですか」
と、一つ一つ疑問を解決することにこだわれましたし、
「今回の意見の食い違いは、そもそもの考え方の出発点が違ったのだ」(短期でみるか長期でみるかの違い)
と理解もできましたので、あとは天命を待つことにします笑。
議論で大切なことは、熱くなって感情的になることではありません。
感情的になってしまいますと、ただの言い合いになってしまい、誰かが不愉快さを抱えて会議室を出ていかなければなりませんからね。
チームや組織を良くしたいと思って集まったのであれば、たとえ間違ったりズレていてもいいので、
- お互いの意見をぶつけ合って、
- 課題や疑問点を洗いざらい出して、
「これだ!」と思える結果を導くべきです。
久しぶりに意見を出したり聞いたりと討論しましたが、周りの先生方の視点や考え方を素直に受け入れて納得したり、訂正したり、突っ込んだりできて楽しかったです。
今後の会議もこのような形で、意味のあるように進めていけるよう精進しますね。
それではまた!
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