こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
先日、友人たちと話していましたところ、
「失敗のない人生こそが、失敗だ」
というありがたきお言葉を聞き、「なるほどその通りだ!」と思いました。
以前の記事でも何度か失敗については触れてきましたが、
「もっともっと失敗をさらけ出したほうが、多くの人の役に立つのではないか?」
と思い、今年もまた様々なことに挑戦し、失敗も含めて記事にしていこうかなと思いました。
今日はそんな「失敗のメリット」について書いていきます。
「失敗してはいけない」というマインドの原因
「失敗を恐れるな」とはよく言われたものですが、僕が失敗を恐れていたのは、
- 完璧な人
- 失敗のない人
- 成功を積み上げている人
と見られたいがためでした。
「見てくれ」を取り繕うことほど、よくないことはありません。
特にこの感覚が作り上げられてしまった原因は、僕が勉強を頑張ってきたことにありました。
ちょっと矛盾しているように見えると思いますが、試験でひとたび良い結果が出てしまいますと、周りから褒められてしまうからです。
それにより、
- 「すずきくんはできる人だ」
- 「彼が悪い点数を取るはずがない」
という勝手なプレッシャーを、自分自身にかけてしまっていたのでした。
- 「自分はいつも高得点でなければならない」
- 「何も間違えてはいけない」
- 「何でも答えられなければならない」
周りの過度な期待が、若かりし頃の僕の「完璧主義」を作り上げてしまったのですね。
実際、周りの人たちは好き勝手言っていただけなのに、です。
もちろん、その分一所懸命勉強を頑張ることはできましたが、悪い点を取った時は泣きはらし、恥ずかしい思いをして家に帰ったこともありました。
その後は少しずつ失敗することができるようになり始め笑、
- 浪人したり、
- 1度、簿記に落ちたり、
- 2度も英検1級に落ちたり、
- アメリカからの帰りの便を逃して、ロサンゼルス国際空港に後輩と一緒に寝泊まりしたり、
- お酒の席でやらかしたり(※ここでは書けません)、
- 非常勤講師なのにやりたい放題首を突っ込んだり、
- 元彼女と最悪な別れ方をしたり、
- 離婚をしたり、
- アキレス腱を断裂したり
と、失敗に次ぐ失敗を重ねてきたものでした。
もしかしたら、大したことのない失敗かもしれませんし、
「むしろそんなの、失敗のうちに入らないよ」
と思う人もいるかもしれません。
今となっては、「何を持って失敗と認めるかどうか」は結局自分次第なのだということに気づくことができました。
かのトーマス・エジソンはこう言っています。
私は失敗したことがない。
ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ。
今思えば、試験に向けて黙々と勉強し、周りを気にせずに試行錯誤していた時の自分が、
- 一番夢中になっていましたし、
- 一番点数が伸びていました。
だんだんと「周りからの期待を意識すること」で、人の目を気にするようになっていたのですよね。
しかし実際は、良い意味で誰も僕のことなんて気にしてはいませんでした。
今は、もっと自分のやりたいことに挑戦して、失敗する楽しさを思い出すべきなのです。
挑戦するからこそ、失敗する。
いきなりする「失敗」というものは、実は「失敗」というよりも「ミス」と言うほうが合っているような気がしています。
- 茶碗を落とす
- 転ぶ
- 忘れている
これは人間にはよくある「ミス」であり、ミスなく生きてきた人はほとんどいないでしょう。
一方で僕が思う「失敗」の前には、必ず「挑戦」があると思っています。
「挑戦」➡︎「失敗」(と認識している結果)
サッカーイタリア代表のロバルト・バッジョはこう言っています。
PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。
つまり挑戦しているからこそ、その失敗を経験することができるという意味です。
突発的に「失敗」が生まれることはありません。
立ち向かったからこそ何かしらの結果が生まれるのです。
その結果がどのようなものであろうとも、その人は他の人が手に入れることのできなかった「経験」を手にすることができます。
僕は大人になってから、挑戦することを恐れていました。
それには必ず、「成功」か「失敗」がつきまとうからです。
しかし、失敗を恐れて挑戦することもしなければ、「成功」どころか「失敗」という経験を得ることすらできません。
それはつまり、「成長していないこと」を意味します。
エジソンが言うように、本当に突き詰めてみれば、失敗は失敗ではないのかもしれません。
- 試験に落ちた。
- 彼/彼女に振られた。
- 試合で負けた。
- プレゼンで大恥をかいた。
「白か黒か」で言ったら、そのような言い方になってしまうことは仕方のないことでしょう。
それに、「結果より過程が大事なんだ」というキレイごとを言うつもりもありません。
ただ、過程も結果も含めて俯瞰した時に、「これは失敗だ」と思えるようなものだとしたら、それは、
- 本当に何も準備せずに挑戦しただけか、
- 熱を伴わずにただ飛び込んだだけか
という、それだけのことでしょう。
- 思いっきり勉強して試験に落ちること。
- 必死に練習して試合に負けること。
- たくさん準備したけどうまくいかなかったこと。
これらが「意味のないこと」であるはずがありません。
それを一番わかってあげられるのは、自分自身です。
周りの目を気にして挑戦しなければ、現状維持で成長は期待できません。
自分の本能に従って、圧倒的な熱量を伴い、戦っていきましょう。
挑戦している姿は、周りに闘志を伝染させる。
情熱を持って何事にも立ち向かっていく生徒を見ますと、羨ましく思えてならないことがあります。
はて、なぜ僕が羨ましがる必要があるのでしょうか。
それは、意識的に自分にストップをかけていたからに他なりません。
- 「社会人になったし、あとはお金をもらい続ける人生でいい」
- 「とにかく平和に、安定して暮らせればいい」
そんな気持ちが、僕の「挑戦する闘志」を徐々に削ぎ落としていきました。
もちろんそれらが悪いという意味ではなくて、人それぞれの感覚や性格、家庭の状況や事情などありますので、現状に照らして考えていけばよいです。
しかし、
「今の僕はそうであってはならないのだ」
と、自分の奥底にある闘志が、僕自身に訴えかけてくるのです。
その闘志に耳を傾けることができるようになったのは、ブログを書いてずっと自分と対話してきたからというだけではありません。
- 周りの多くの友人たちの挑戦
- 生徒たちの頑張り
- 多くの書物の著者たちの冒険
これらによって「自分もやらなければならないのだ!」と、闘志がみなぎってきたのでした。
周りの友人たちを見ていますと、惜しげもなく、
- 「〇〇に挑戦してみます!」
- 「〇〇したら失敗しました!笑」
- 「結果はこんな感じでした!まだまだ未熟でした!」
と、どんどん報告をしています笑。
それなら僕も、かっこいい部分だとかキレイな面だけを伝えていくのではなくて、
- 泥臭くてもいいから、
- 過程にも納得できていて、
- その上で出た結果
を、みなさんに示していかなければならないと思ったのでした。
彼らを見ていますと、
- 「お前ならきっとできる!」
- 「がんばれ!」
- 「応援してるぞ!」
と、僕も声をかけたくなりますし、実際に応援されています。
いつの時代も、頑張っている人は応援したくなるものです。
だから僕も「失敗すること」を織り込み済みで、どんどん挑戦し続けたらいいのです。
「今年は、来年に向けての準備期間の1年だから、とりあえず何もしなくていいか…」
否。
そんな1年だからこそ、何にでも挑戦できるのです。
僕が闘志を燃やせば、周りの人にもその熱が必ず伝染するはずです。
いよいよ、反撃の狼煙を上げる時がきたのです。
おわりに
この1年でできることは、できる限り挑戦しようと心に誓った4月。
挑戦していわゆる「失敗」をしたときの最大の損失なんて、そもそもありません。
あったとしても、たかが知れています。
- 人生が崩れるわけでもなければ、
- 人から笑われるわけでもありません。
自分で勝手に妄想して、言い訳をし続けていては、いつまで経っても成長は見込めません。
先ほども書きましたが、事情がある人は「それぞれに見合うリスク」をとることで十分です。
しかし、僕はそうであってはいけません。
今こそ、挑戦の時だからです。
闘志を燃やして挑戦し続け、「過程も結果も丸ごと意味のある時間だった」と言えるような、そんな1年にしたいですね。
さぁ、これだけ書いたのだから頑張らなければいけませんね笑。
自ら追い込むスタイル…
それではまた!
コメント