こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
オンラインで授業をしていますと、ありがたいことに、
と言われます。
自慢するわけでもないのですが、僕は公立高校の先生として9年間働いていましたので、プロの意識と言いますか、「生粋の教育オタク」ではあると思っています笑。
教えることが純粋に好きですし、
- わかりやすく
- 理解してもらいながら
授業をすることが大好きなのです。
今日は僕の「教育熱」について書いていこうと思います。
情熱のある先生とは?
さて、一口に「情熱のある先生」と言っても、特に定義はありません。
僕がなぜそう称されるのかと考えてみますと、
という点がすぐに浮かびます。
僕は目の前にいる生徒の「わからないこと」に、だんだんと向き合うようになりました。
それまでは適当な先生でしたし笑、逆に「わからないことがあること」を恥ずかしいことだと思っていた時期がありました。
と。
でもそれは「逆」でして、
- わかることは徹底的に教えていいが
- わからないことは一緒に調べてあげる
ということのほうが、生徒からの信頼がグッと上がります。
先生だからこそ、わからないことをわからないと伝えてあげますと、生徒たちのほうが知っているこことで、
と、いい気分にもなります笑。
「情熱」とは、
という気持ちの問題や、勢いの問題ではありません笑。
そうではなく、生徒に対していかに真摯に向き合うことができるかが問題なのです。
この感覚は「長い年月」で培ったものでもありました。
と、感じることができるようになったのです。
情熱とは、内に秘めているものでいい。
もちろん、時に表に出してもいい。
でも根本には、その人の「先生としてのあり方」がしっかりと確立していなければ、すぐにボロが出てしまいます。
若かりし頃の僕のように笑。
だから情熱とは、昔ながらの「3年B組」のような話ではなくて、
- 優しさ
- 真摯さ
- 素直さ
など、総合的に見られるものです。
と思わせることであり、実際に僕がそうなのだからそう見られるのですね。
フェアな精神を持つこと
公教育の機関にいますと、どうしても「公平性」が問われることが多かったものでした。
ただ、僕がここで取り上げる「フェア」とは、
と定義させてください。(また情熱かよ笑)
- どの生徒にも
- ニーズに応えてあげること
が、僕の先生としての真骨頂であり、何を聞かれても答えられるようにはしています。
ただ、先述した通り、わからないことはその場で調べますし、全知全能である必要なんてありません。
大切なことは、ちゃんと一人一人の生徒と向き合うこと。
それぞれの悩みは違うからです。
一つ一つのニーズに答えていくためには、僕自身も毎日学びを深め、成長していく必要があります。
僕がいつまでもプレイヤーでいるほうが、生徒たちもついてきやすいですしね。
ただ、大事なことは、
とか、
とかではありません。
- 何度同じことを聞かれても
- 何度わからないと聞かれても
イヤな顔をせずに、フェアに向き合うことです。
ニーズに応えるということは、別に「態度を変えること」ではないからです。
生徒のできていないことは「できていないよ」と指摘し、その人が成長することを望むこと。
「公平性」とは情熱と対極にありそうな表現ですが、ある意味で「教育に対する情熱」とは、この精神を持っておくことだとも思っています。
どの生徒にも公平に情熱を持ち、
- 英語初心者だろうが
- 英語上級者だろうが
しっかりと向き合うことです。
こう思ってもらえることは、公平に向き合えているということでもありますね。
いつまでもそういう先生でいられるようにするためには、やはり情熱を持って一人一人と向き合ってゆくことですね。
好かれようとしない
これは僕がいつも言っていることですね。
先生は特に、「好かれようとしてしまう態度」を顕著に出してしまう人がいます。
以前の僕もそうだったように、
と考えていたものでした。
面白いことに、逆説的なのですが「そういう意図を持っていないほう」が好かれるという原理があります笑。
考えてみるとそれはそうでして、僕ら人間は相手の思惑なんてすぐにわかるからです。
と。
教育において、生徒たちに「ちゃんと情熱を持って教えられる人」というのは、
- 生徒のこと好いてもいなければ
- 生徒から好かれようともしていない
という、まさに「公平な人」です。
と言われそうですが、生徒を好こうと思っている人は、無理をしていることが多々あります。
実はこれも、“自分の都合” でしかありません。
正しく、情熱を持って教えることは大事なことではありますが、そこで生徒を好きにならなければならないということにはなりません。
冷静に考えますと、
と思う人がほとんどでしょう。
教育に関する仕事をする、とはそういうことです。
- 淡々と教えろ
- 感情なんて抜きにしろ
とか、極端なことを言っているわけではありません。
どんな生徒にも全力で教えていたら、
- 好きであるかどうかとか
- 好かれているかどうかとか
そんなことは、自然と気にしなくなるからです。
大事なのは「その部分の感情」ではないのです。
そこありきで、教育が成り立っているわけではないということ。
生徒たちに愛情を注いであげることは大切なことですが、
という思いがある人ほど、なんとかして「自分の感情」も大事にしようと考えてしまい、無理に伝えようとしてしまいます。
そこに終始することは的外れですし、仮に愛情を注ぐと言っても、そこに固執しすぎますと「変な感情」まで介入してきてしまい、様々なトラブルに繋がります。
そうなんです笑。
そういう立ち位置をちゃんと考えて確立するからこそ、
と思われているのかなと、そう思いますね。
おわりに
「情熱を持って教える」といっても、定義はそれぞれ異なります。
今日は「僕なりの先生としてのあり方」を述べたまでですが、ある程度の年数をやってみて確立したものですので、それなりの意見だとは思います。(正しいとは言ってない)
また、本気で好きじゃないと、こういうことについて議論はできないものです。
いろんな先生がいていいですが、ちょっと外れてしまうと本来あるべき「教育」から外れてしまいます。
僕はいつまでも情熱を持ち、フェアに教えられるよう、これからも教育に携わっていこうと思っています。
それではまた!
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