こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
少し堅くてタブーなお話かもしれませんが、僕はその昔、
- 「宗教に属していた?」
- 「宗教をやっていた?」
時代がありました。
自分の中で熱心にやっていたのは、中学校3年〜高校2年生くらいだったと思います。
日本だとあまり浸透していないイメージのある、「宗教」という観念。
とはいえ、
- 日本にもキリスト教系や仏教系の学校があったり、
- 神社やお寺がたくさんあったり、
- 初詣や合格祈願、困ったときや騒ぎたいときだけ、神頼みをしたり
と、よく考えてみますと日本人に無宗教もクソもあったものではありません笑。
さて僕は「キリスト教系」のものでしたので「お祈り」はよくしていましたが、どこをどういう風に道を逸れてしまったのか、すっかりと信仰心をなくしてしまいました。
僕なりの宗教観を、経験とともにお伝えしていきたいと思います。
宗教に浸っていた頃とは?
思春期真っ只中の僕は、「宗教なんかめんどくせぇ!」としか思っていませんでした。
- 日曜日に礼拝に行き、
- 神に祈っては、
- 有名な方から、ありがたい説教を受ける。
信仰心があればいいものの、親に「無理やり行かされていた」と感じていましたので、全然楽しくありませんでした。
結論:何事においても、やらされてやるものほど嫌なことはない。
とてもシンプルなことです。
余談ですが、スラムダンクのゴリこと赤木剛憲も、主人公の桜木花道を誘う時に、
バスケットは、他人にやらされるもんじゃないだろ
と、はっきり言っています。カッコいいですね。
しかしそのマインドが変わり「なんだか楽しいな」と思うようになってきたのは、他でもありません。
邪(よこしま)な考えがあったからです笑。
中高生たちが集う教会や青少年の家では、みなさんがイメージする欧米の「大聖堂」といった雰囲気はなく、普通のオフィスビルの会議室が多いです。
日本には「歴史的な教会」があまりないためでしょう。
形はどうあれ、
「若者たちが1つのことに向かって、何かに取り組む場所」
は、僕にとってかなり魅力的に映りました。
いわゆる「学校」のような感覚でして、何かに向かって真剣にやり切れば褒められるような場所でした。温かい場所でした。
- 同志たちとともにスポーツをしたり
- 合唱の大会に出場したり
- ジュースを飲んでお菓子を食べながら雑談したり
することはとても楽しかったです。
自分で言うのも恥ずかしいことなのですが、当時教会においては「スーパースター的存在」でしたので笑、熱心な同志たちとしゃべっては、そのコミュニティを活性化させる中心メンバーとして活躍していました。
男子たちは「頑張る姿が恥ずかしい」と思っていた子たちが多かったため、早い段階でそう思わなくなっていた僕は、共同体の「運営サイド」にいることができました。
思春期爆走中だったので、女の子たちと話せることがとにかく嬉しかったのです笑。
ただし結論の通り、僕の信仰心はスッと「0」に向かっていきます。
初恋・お酒との葛藤
僕の所属する共同体では恋愛が禁止されていました。
「AKB48と一緒だ」と思って頂ければ、なんの問題もないでしょう。
「思春期を突っ走る男の子」にとっては厳しい現実ですよね。
僕は悩み悲しんだ結果、自分の境遇を顧みました。そして自分の信念に従うことに決めました。
そうです。
信仰心ではなく、自分に対する忠誠心を取ったのです。
BUMP OF CHICKENの藤原基央さんも言っていました。
神に誓うな、己に誓え。
これは取りようによっては、
- 自分勝手でわがまま
- 傍若無人で亭主関白
とも取れます。
しかし高校3年生の冬、僕は一大決心をして初恋相手に告白をしました。禁じ手でした。
(「高校3年で初恋は遅い笑」と、そういうことは言わないでください)
しかし僕にとってこの経験は、僕の宗教観を変えるきっかけになったのでした。
悪く言えば、僕は確かに「共同体への良くない浸り方」をしていたという自覚があります。
そこに信仰心のかけらは全くなく、ただ楽しむために教会に行っていたからです。
- その内実を伴わない宗教活動と、
- 自分の「正しいと思うこと」「本当にやりたいと思うこと」
を天秤にかければ、後者のほうが重くなるのは火を見るよりも明らかです。
自分に嘘をついてまで守る信念なら、そんな信念はないほうがいい。
そう思ったのです。
その後なんとなく教会に行かなくなり、大学生となった僕には、次に「お酒」の誘惑が待ち受けていました。
僕はダンスサークルに所属していましたので、飲み会はたくさんありました。
もちろんこれもNGですね。
僕は「20歳までお酒は一滴も飲まないこと」を、「自分に」誓いました。
これは偉いとか正しいとかそういうことではなくて、自分なりのケジメみたいなものでした。
その後はハメを外しつつ、「飲みニケーション」をしながら友人の輪を広げて行くことができました。
後ろめたさはあったものの、自分としっかり向き合った上でお酒を楽しむ決断に至ったのです。
学校にある「謎ルール」のように、各団体にはそれぞれのルールが存在します。
自分で納得した上で突き進んでいかない限り、どこかで必ず共同体との「ズレ」が生じてきます。
日本は国としての宗教色は強くありませんが、各団体の信念・信条は固く厳しいものが多い印象です。
だからこそ「自分との対話」が大切になってきます。
- 自分と十分に対話し、納得してからその道に入っていくこと。
- その道を進んでいくと決めた上で、自分なりの信条や信念を見つけていくこと。
- 時に合わなければ、共同体から離れること。
このスタンスが大切だと思っています。
宗教はそれぞれの中にある
経験者として言わせていただきますと、僕は自分の本能や信念としっかりと向き合ったほうだと思います。
共同体に属した経験があったからこそ、見えてきたことはたくさんありました。
自分の内側にある「信仰心」が本当に心の底から湧き上がってくるものでないのであれば、それは「無い」に等しいと思います。
その場合は、下手に入信してコミュニティに浸らないほうがいいでしょう。
それぞれの信じる道があればそれはそれでよく、人に押し付けるものでもなければ、押し付けられてやるものでもありません。
実は信仰心を失った後で、また僕の信念を創り上げたものもありました。
それは。
- ワンピース
- スラムダンク
- キングダム
などの男クサい漫画です。
「宗教」とは古くからあるものに限らず、例えば、
- 「アイドル好きで〇〇のファンだ」
- 「〇〇というインフルエンサーの配信はよく聞くようにしている」
- 「この人のオンラインサロンには入っている」
- 「あのチームのサポーターだ」
- 右翼や左翼
- 信者やアンチ
などもまた、一種の宗教のようなものなのかなと思っています。
この場合の「宗教」という言葉の定義は、かなり広いものですね。
現代では、
- 時に僕らの暗い道を照らしてくれたり、
- 逆境やどん底から救ってくれたり
と、並外れた影響力を持っている人たちはいるのです。
それぞれが思う格好良さや美徳、敬意や畏怖があって、それを目標にしたり尊敬したりすることは「個人の自由」だと思っています。
ただ、自分の人生を生きるのは、他ならぬ自分自身だということ。
この事実はいつの時代も変わりません。
ここに立ち返らない限り、いつまでも他人の敷いたレールの上を生きるだけとなってしまいます。
だから僕は、宗教や信仰心を否定しているわけではないのです。
僕にはただ「感覚が合わなかっただけ」だったのです。
宗教ではなくても、
- 誰かに励まされたっていいし、
- 誰かに助けられることがあったっていい。
それらを糧にして、最終的には自分らしく生きること。
これが生きることの本質なのだと思っています。
自分の内に「確固たる信念」を築き上げることができたのであれば、その過程に宗教や信仰、様々な考え方があってもいいのではないのかなと。
結局は「自分がどう捉えるのか」が大切なのですね。
おわりに
- サウナ
- 美術館
- 瞑想(マインドフルネス)
コロナの影響もあってか、僕はひとりで過ごすことが多くなりました。
その分、以前よりもずっと自分を大切にできるようになったと思っています。
- 自分の時間
- 身体
- 趣味
- 人付き合い
- 考え方
結局「宇宙の真理」なんてものはどこにもなくて、意外にも一番身近な自分という存在の中にあるということに気づきました。
自分をわかってやれるのは、他でもない「自分だけ」です。
こんなにも「自分の呼吸」や「自分の感覚」に目や耳、意識を向けたことは今までありませんでした。
世界を見渡せば様々な宗教・信念があって、それらが混在する「混沌とした世の中」であることは間違いありません。
- それらを真っ向から否定せずに、
- それぞれの掲げる信念を尊重し、
- 認め合うこと
が大切です。
「行き過ぎた過激な信仰心」も、時に人を傷つけますので注意が必要ですね。
僕はまたワンピースを読んで、自分の内にある「信念」を確認するとします笑。
それではまた!
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