こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
元々教員だった人間からしますと、
- 教えること
- 教壇に立つこと
は日常茶飯事です。
今でもオンラインで講師をしていますし、人と話す時も知っていることを教えたりする場面ばかりです。
ただ、
と思っていますと、傲慢になってしまいそうになります。
今でも謙虚になるよう努めていますが、まだ調子に乗っている部分もあるやもしれません。
今日は、改めて「謙虚になること」について書いていきます。
人に教えることは悪いことではない

もしかしたら、教員や教えている人を見て、
と思う人もいるかもしれません。
しかし本質とはその人の、
- 性格
- 態度
- 信頼
などであって教えることそれ自体は、何も悪いことではありません。
むしろ問いたいのが、
ということ。
わからないことがあって何かを聞かれたこともあるでしょうし、上司や先輩として教えてあげたこともあるでしょう。
あるいは、わからないことを誰かに聞いたことだってあるに違いありません。
だから、そこに偉いも何もないわけでして。
「大事だと思う情報」を提供することは、むしろ感謝されるものですし、わからなくて聞く時なんて相手に教えてもらっているわけですからね。
僕は「教える」という職業を20歳のバイト時代からスタートさせてきましたが、これほど感謝されることはないと思っています。
後述しますが、やはりそこには大事な「精神」みたいなものがあると思っていまして。
- 上から教えない
- 偉そうにしない
- 自分はなんでも知っていると思わない
などなど。
先生をやっていますと、どうしても偉そうになってしまうことがありますからね。
どんなに知識や経験があっても、誰だって偉そうにしている人から教えてほしいだなんて思う人はいません。
教えることそれ自体は、先生だけでなくいろんな人が “常日頃から” 行なっていること。
それを否定したいのであれば、まずはその人の行動や言動を見てから。
その上で気に食わないのであれば、
- 離れるか
- 指摘するか
ですが、基本的に「教えること」それ自体を批判することは、自分自身にも返ってきますのでやめたほうがいいですね。
常に勉強を怠らないこと

しかし、こうして教えることが多くなってきますと、少なからず「傲慢さ」が出てくるようになります。
と。
これは一番あってはならないことなんですよね。
先生たちも常に勉強していませんと、
と思われてしまいかねません。
一方、自分より知識のある人を見かけたことで、
となるのは、さすがにダサすぎます。
そうではなくて、
と常日頃から思えているかどうかということ。
僕は最近になって国会の答弁もたくさん見ていますが、まだまだわからないことだらけです。
先日も、
とニュースになっていましたが、どうやらXではあまりいいコメントが見当たらず…
そこでChat GPTにも聞いてみました。
という問いに対し、「その通りです」と。
所得税の壁を178万円越えたところで、働き控えがなくならないであろうということも、示唆してもらえました。
このように、常に疑うこととは以前にも書いた通り、大事なことです。
勉強とは「疑うこと」から来ているものでもあり、なんでも知っているのであれば勉強なんてしなくてもいいわけです笑。
僕らが勉強をしていくのは、決して誰かに対してマウントを取るためではない。
自分がした経験や持っている知識を、後世に伝えることで社会全体として伸びていこうとする「プラスサムゲーム」の発想からくるべきことなのです。
僕が勉強をするのは、人から感謝されることに喜びを覚えることも一つありますが、それだけでなく自分の知識の確認もしておきたいという気持ちがあるからでもあります。
僕が常日頃からこう考えているのは、変に間違ったことを示したくないからでもありますが、そもそも「教育フリーク」が原点なんですよね笑。
教えるからには勉強し続けること。
勉強をやめた教育者からなんて、何も教わりたくないのです。
謙虚な姿勢こそ、侍であり漢

教育者たるもの、圧倒的な自信とは大事なものです。
漫才師やダンサーが不安な表情で舞台に立っていたら、
ってなってしまいますよね笑。
先生たち、教育者たちも然りで、そこに自信が必要なのは間違いありません。
自信とは経験や知識から来るものですから、やはり勉強が大事なわけですよね。
さて、それでも僕らは「謙虚」でいなければなりません。
「謙虚」が意味することとは、単に、
…ということではありません笑。
謙虚を超えますと、「卑下(ひげ)」という部類に入ってきてしまうのです。
申し上げた通り、これは見ている側も不快・不安になってしまいます。
- 傲慢にならず
- かつ卑下せず…
この按配をいかに保てるかが、人として、いや漢(侍)として一番大切なところです。
謙虚さとは、ある意味勉強を徹底的にしてきたからこそ、生まれる「余裕」とも言えます。
若かりし頃は、僕もどうしても食ってかかっていたものでした。
今思えばそれは、自分の経験や知識のなさゆえの「噛みつき」でしたね。
「教えること」がメインの仕事をしていますと、どうしても、
とたかをくくってしまうものです。
しかし、それではいけません。
教える時は丁寧に、でも傲慢にならず自信を持って。
自分にわからないことがあれば「わからない」とはっきりと伝え、自ら調べて自分なりの勉強の糧(かて)にしてゆくこと。
このサイクルを回し続けることが、イコール信頼の獲得にもなります。
漢たるもの、体は女性や子どもよりも “そもそも強い” ものです。
さらに教員(あるいは教える)という立場に立ってしまえば、さらに相手に圧を与えかねませんからね。
謙虚であることこそがその人の「強さ」であり、そういう人ほど多くの人から尊敬されます。
いつでも「侍の魂」を忘れないよう、毎日勉強してゆくことが大事ですね。
おわりに
こうして教えることが多くなりますと、どうしても傲慢かつ偉そうになってしまうものです。
これは「先生あるある」でもありますから、気をつけなければなりませんね。
どんな立場になっても、
- 勉強し
- 謙虚でいる
ことですね。
これからも精進していこうと思います。
それではまた!
