こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
オンラインで英会話の講師をしていますと、
と聞かれることがよくあります。
先日は相手が現役の高校教員ということも知らずに笑、
と伝えたら、どうもつっかかってくるので、いろんな面から僕が教員を辞めた理由をお伝えしたところ、
と言われてびっくりしました笑。
今日は「公立高校の現状」をお伝えします。
公立高校で働いていた時の良い思い出
僕は何も、「公立高校のやり方(=現代の公教育)」を全否定しているわけではありません。
こうして安い授業料で、これだけ多くの生徒が一気に授業を受けられるのですから、それはとても素晴らしいことです。
効率性を突き詰めれば、
「教える相手が多ければ多いほど、それだけ安くできる」
ということですからね。
働き手としても、
- 給料
- 福利厚生
という意味でもとても有利に働きます。
さらに言えば、僕は勤務していた2校で「ダンス部」を受け持たせていただいたので、それもまたいい思い出でした。
文化祭や体育祭、球技大会といった「イベントごと」は青春以外の何ものでもなく、こればかりは「学校」という括(くく)りがあるからこそ実現させられるものですよね。
僕は「国公立」の学校でしか育ったことがありませんので、
という気持ちはとても強かったものです。
決して全てが悪いわけではないですし、だからこそ僕自身も9年間勤め上げることができました。
ポジションが割り当てられてしまうため、自由度は効かないものの、何もしなくても「先生」となれば生徒たちと触れ合うことができますし、一方で「担任をやりたい/やりたくない」の意思もある程度は伝えることができます。
公立高校にもその良さがあって、僕はむしろ「好き」の部類に入っていますね。
ただやはり、僕の求めている「教育」には程遠いものがありました。
何ができないのか
それでも僕が「安定」を投げ打って飛び出したのには、それなりの理由があります。
英語教育において言えば、文法などの「one-way(=一方通行)」の授業は、学校でも全然やっていったらいいと思っています。
僕も、
と思っていますしね。
ただ、
- 使わなければならない教科書がある
- コミュニケーションを取るには多すぎる人数
など、クラスサイズや教材の問題があります。
基本的に高校で使うものは「文字ベース」となっており、会話を中心にしていません。
もちろん「英語表現」などの授業に見合った教科書が出てきてはいますが、スピーキングテストの実施が難しいように、
- 先生も生徒に話させず
- 生徒も話そうとしない
というように、「会話特化型」の授業はほぼ皆無となっております。
僕自身、そして他の先生方も、それなりに「会話ベースで…」と思いながら授業を組んだりはするものの、人数的に限界がきます。
40人でペアを組んで一気にしゃべらせてもいいですが、
- 生徒たちがそもそもしゃべれるのか
- そのフィードバックを誰がするのか
など、重箱の隅を突(つつ)けば、いくらでも課題点が出てきます。
これはある一種の「諦め」でもありますね。
公立高校というよりかは、このクラスサイズで英語をやろうとすること自体、「文法特化型」くらいしか機能しなくなるのです。
会話はそもそも1対1か4〜5人が限度です。(飲み会を見ればわかりますよね)
その力を養っていくには、40人のクラスではグループを作ったりペアでやったりするのが関の山。
しかもみんながみんな英語にモチベーションがあるわけではないですし、話せるかどうかの能力もまちまちです。
「できる限界」は必ずあるはずなのに、
と言っている人は、
- 現場に出たことがないか
- 現実から目を逸らそうとしているだけ
に過ぎません。
できないものはできないのです。
「英会話」の力を伸ばそうとするなら、どう考えたって少人数意外にあり得ません。
とも言われましたが、それは学校外の活動が基本になりますし、高校でやるとしてももう「そういうプログラム」にお金を当てがうしかありません。
さらに他で言えば、
- 部活動のイベント
- 生徒たちの自主的な行事
などもまた、「上に話を通す」と言うクッションが必ず入ります。
もし、
と言う先生がいるのであれば、僕はもう何も言いません笑。
公教育という破格の値段でできるからこそ、できないもの(=制約)は多いということを知っておかなければならないのです。
スピードと変化を求めるなら離れるべし
僕が公教育の現場を離れる決断をしたのは、そうした「働き方/教育方法」に課題を感じていたからでした。
自分が今もらえている「給料」に甘んじて、本来やるべき教育ができないのに続けているなんて、それは「怠惰」以外の何ものでもありません。
もちろん、今努力されている先生方がいるように、当時の僕もできる限りのことをしていました。
- 授業にiPadを取り入れてグループでシャドウイング
- ダンス部で引退公演をするために武道場を貸し切り
など、
- 先生のやりたいこと
- 生徒のやりたいこと
に従いながら、できる限りのことを全力でやっていました。
それでもどこかで限界が来るのは、「公教育」という均(なら)された教育現場で日々「やりたいこと」とぶつかっていかなければならないからです。
「現場」にはいろんな生徒がいて、
- 英語だけを学びたい生徒
- 受験勉強だけできればいい生徒
など、目的の違った生徒(あるいは先生)が数多くいます。
そう思っていないと、学校が機能しなかったのです。
全体(あるいはトップ)の了承を得なければならないから、
- スピードも遅く
- 変化もしづらい
という状況が生まれます。(意図しなくても)
それはひとえに、「平等」という大義名分をもとに教育をしていかなければならないからですね。
何度も申し上げますが、
と思えているのであれば、そのままでいいのです。
ただ、僕は結構な「リベラル野郎」ですから笑、
と思ってしまったわけですね。
スピード感や変化を楽しもうとするならば、公教育には向かないのでしょう。
学校は言うなればガラパゴスのような感じで、ずっと世界のスピードから置いていかれているようなものです。
僕は公立の学校で働くことはできても「やっぱり合わなかった」という、ただそれだけのことだったのでした。
「学校の良さ」も十分にわかっています。
でも僕のやりたいことや、
と切望している生徒たち(高校生に限らない)のニーズに応えるには、公教育では限界があるのです。
スピードや変化を求めていたから、僕には無理でした。
それは給料とか安定とか、青春とかを飛び越えた、「教育そのもの」に対する僕の想いが強いからなのです。
おわりに
僕がこうして教育について語るときは、
というスタンスではありません。
僕が教員を辞めた理由なんて僕自身の自由ですから、語る義務もありません。
でも僕は僕なりに「ミッション」みたいなものを感じていて、その1つが「教育」であり、誰かに語ることで、誰かの何かのきっかけにしていただきたいのです。
あくまでこれは、一個人の一意見でしかありません。
まだまだ日本は変わっていける。
僕はまた違ったステージで、教育に携わっていきますね。
それではまた!
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