タイムマネジメントをしないメリット【自分のキャパに収める】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日から「限りある時間の使い方」を読んでいます。

時間は有限である」という話からスタートする本書は、まだ数章しか読んでいませんが、すでにとても胸に響く内容ばかりです。

特に冒頭で気になった点は、

時間管理をすればするほど、時間管理はできなくなる

というものでした。

僕は1日にやることが決まっていますので、あまりタスク管理や時間管理はしたことがありません。

今回は僕の経験と、本書の冒頭部分から感じたことを合わせて書いていきます。

時間管理をしようとしなくてもいい。僕らの本当の時間を取り戻そう。

マルチタスクなんてできっこない

僕はずっとそう思って生きてきましたが、マルチタスクは幻想だと思っています笑。

いえ、本当にできる人もいるのでしょうが、人間1つのことに集中する方が圧倒的に「効率的」だと思っています。

同時に複数のことなんてやったことがない

僕自身の経験から言っても、受験勉強中に「〇〇ながら」は基本的にありえませんでした。

一応、「音楽を聴きながら」は勉強していましたが、集中し始めるための導入剤みたいなものであり、周りの音をシャットアウトするためのものでしかありませんでした。

本当に集中し始めますと、音楽なんてこれっぽっちも聞いていません。

つまり「音楽には全く集中できていない」ということになります。

仕事が始まってもそうです。

  • 生徒の対応
  • 教室の片付け
  • 会議資料の作成と整理

などがいっぺんにできたら、それほど簡単な仕事はありません。

1つ1つ、順序立ててやるしかないのです。

しかし現代では、1日24時間があまりにも少ないからなのか、同時進行で全てをやろうとする動きが高まっています。

僕個人としては「不可能」だと思っていますし笑、あまりオススメはできません。

むしろ「マルチタスクをしないと終わらない仕事量」を抱え込んでいるとしたら、それはもうとっくにキャパを超えています。

  1. 1つ1つの仕事に集中し
  2. 1つ1つを丁寧に終わらせること

が、最速かつ効率的だと思っています。

あくまで僕の意見ではありますが、多くの人が納得するのではないでしょうか。

ニーチェもまた、こんなことを言って嘆いていたそうです。

昼食をとりながら新聞で株式市場の動向を読んでいるとはなにごとか

おっしゃる通り。

僕はマルチタスクはしなくても、食べながら何かをしてしまうことは多いです笑。

よく親に怒られたものでした笑。

これは気をつけなければなりませんね。

総じて、

  1. マルチタスクをしてしまう
  2. 時間管理をしなければならない現状
  3. =とっくにキャパオーバーをしている

という論理に持っていくことは、確かにできます。

「全てが悪い」とは言えませんが、心当たりのある人は要注意ですね。

同時進行で仕事をしようとしている時点で、すでにキャパを超えている。1つずつ丁寧に仕事をこなそう。

僕が時間管理をしない理由

僕の場合はやることが「少ない」ということもあって、1日の限られた時間の中で優先順位をつけ、あとはざっくりと過ごしています。

ただ、Googleカレンダーなどで予定の管理はしていますので、まだまだ時間管理は「しているほう」なのかもしれません。

時間管理を「きっちりと」しすぎてしまいますと、それがうまくいかなかった時に幻滅してしまうのだと、本書には書かれていました。

僕もそう思いますが、自ら「アソビ」の時間や、柔軟に対応できるようなスケジューリングを組んでいる方もいますので、時間管理をしてはいけないということではないと思っています。

著者の意図は、

管理すればするほど、効率的になってしまい、仕事がまた降ってくる

という主張でした。

ある意味「真実」ではありますが、僕は少し違うのかなとも感じました。

  1. 管理できることはざっくりとしてしまい、
  2. 「アソビ」の時間では柔軟に対応していく。

こんな感じであれば、ある程度の時間管理はあってよいのかなと。

確かに、「分刻みで」とか「AやったらBやって、その次はC!」みたいな人もいますよね笑。

  • キャパを超えていなくて、
  • かつその人が幸せであれば、

別にそれでもいいとは思っていますが、キチキチにスケジューリングしておくことは、僕も苦手ですしこれもまたオススメできません。

だってやらなきゃいけないんだからさ!

という人もいますがその分、時間を空けるために何かを捨てた方がいいとすら思っています。

僕にとっては、生きた心地がしないからです。

人生、そんなにやらなきゃいけないことばかりであるはずがないのです。

もちろん、

どこかの田舎でのんびりと…

という生活が正しいというわけでもないですし、むしろ僕はいつまでも「働きまくっていたい派」です。

その中でも、自分が夢中になって時間を忘れるような、そんな仕事をしていくことが理想です。

「残業万歳!」という意味ではないことは、ご承知おきください。

現在は、1日の時間管理はしていないものの、

  • 朝活
  • 本業
  • ブログ

の3つは欠かすことなく続けつつ、

  • 筋トレ
  • ダンス
  • コメダ
  • サウナ
  • 美術館
  • ランニング

が、1週間の中でたまに絡んでくるように調整しています笑。

全部ルーティン通りに!

と強く思いすぎてしまうほど、できなかった時の自分に幻滅してしまいますからね。

時間管理はほどほどにしましょう。

分単位で動いているような「本当に忙しい人」もいらっしゃると思いますが、ある程度は「自分のキャパ」を考えて生きていきたいですね。

時間管理は細かくやりすぎると効率主義になり過ぎてしまう。そして余った時間にまた仕事を入れてしまうのだ。そうならないためには、アソビのある「ざっくりした時間感覚」を持ってみよう。

効率主義はダメなのか?

本書では、

あえて時間をかけたほうがいいこともある

という言葉があり、妙に納得しました。

例えば僕で言うところの、

  • 旅行
  • サウナ
  • 美術館

などの時間は、大いに「アソビ」を持たせて、ゆったりすることが多いです。(実際は結局、動き回っているのですが笑)

街の多忙なサラリーマン生活に疲れ、自然が豊かな田舎暮らしをして、

なんてゆったりと生きているのだろうか

と思うようなパターンですね。

一方で、僕は「効率化したほうがいいこと」もたくさんあると思っています。

  • 家事
  • スマホに頼ること
  • 対面での事務的なやりとり

などです。

スマートフォンの進出により、世界は一段と便利になりましたよね。

本書ではたまに人とやりとりするような「時間のかかる場面」(レジや手紙など)も大事だと書かれていましたが、僕はそこまで賛成はしていません。

効率的に済ませられることで、時間が空くこともあるからです。

確かに、その空き時間ですら休まる暇がないのであれば大問題ではありますが…

  • 洗濯機
  • 食洗機
  • 自動お掃除ロボット

などの家電を例にあげればわかる通り、その間に他の「生産的なこと」ができるようになりました。

「手間をかけること」を否定しているわけではありません。

  1. 自分にとって優先順位が低く、
  2. 生産性のない作業重視のもの。

これらは外注したり、機械に任せたりしたほうがいいのです。

その分、忙しさを増すこともあるかもしれませんが、要はバランスさえ守っていればOKなのです。

  • ゆったりし過ぎて何もすることがないこと
  • 忙し過ぎて死んでいるように生きていること

どちらも僕は「イヤ」です笑。

ずっと安定して「ほどよい忙しさ」が獲得できることが、僕にとっての理想です。

そしてそれは、自分で「コントロールや調整」ができるものであること。

それは決して、

「ずっと会社に勤めた後に待っている老後生活」

で、手に入れるものではありません。

自ら獲りに行き、自分の手でつかものです。

意味のないことや、生産性のない雑務に追われる人生ではいけません。

必要なところで効率化を図り、豊かに暮らしていくことを目指しましょう。

効率主義になり過ぎても、牧歌的な生活で人生を終えるのも、どちらもイヤだ。ただ、自分の理想の生活を手に入れるためには、自分で行動し、自ら勝ち取っていくしかないことを知っておこう。

おわりに

時間管理をして、効率的に生きる

この言葉は、現代の社会人が求めている形態なのでしょうか。

生き方に正解はありませんが、

有限な時間をいかに効率的に生きるか…

という考え方には、確かに違和感を覚えます。

僕は、

  • 程よく効率化をして、
  • 程よく遊んでゆっくりする。

当然かもしれませんが、これが良いと思っています笑。

ざっくりとしていますが、「自分の生きたいように生きる」ことが何より大切であり、

できたら苦労しないよ…

と思うのでなく、「自分でそう生きるようにしていかなければならない」と思っています。

今(2022年)はまだ教員の業務がありますが、来年からはフリーになると思うとそれだけで楽しみです笑。

自分の時間は、自分でコントロールする。

それは「みっちり時間管理すること」ではなく、「生きたいように生きること」なのかもしれませんね。

偏りのないよう、バランス良く生きていきましょう。

それではまた!

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