こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
2025年の7月にある参院選に向けて、各政党や個人の「やり合い」が過激になってきました。
今日は政治の話だけではありません。

と、「ダサい大人たち」がいる世界線に、吐き気がしているからです笑。
人の悪口を言う奴とは縁を切れとよく生徒に言っています。
「政策はわからないけど、幼稚な他党批判をしている政党には票を入れない」
ほとんどの国民がそう思うでしょう。
誰だってそんなダサい大人にはなりたくないですからね。
他党批判をせずに、正々堂々と漢らしく戦う人のほうが僕は好きですね。 https://t.co/ajXHHM243j— せいじ@ストイック (@seiz_suzuki) June 28, 2025
そんな人たちからは、勝手に人が離れていくので気にしてもいませんが、この世界にはどうやらネット上だとイキがれる人が多いようです。
かく言う僕も、こうしてブログで好き放題書いていますが、たぶん対峙した時のほうがもっとはっきり言ってしまうと思います笑。(教育者なので)
今日はそんな「ダサい大人」にならないようにするために、記事を書いていきます。
むやみな批判は自分を落とす
そもそも、そうやってSNS上で他人を批判している人には、「他人をやたらと批判したい人」たちが寄ってきます。
批判されているその人が何をしたかによるかもしれませんし、私的な感情も湧き上がってくるかもしれません。
- ゴシップ
- やり返し
- 友人の失敗
など、人の批判とはあげればキリがありません。
逆に聞きますが、

と問いたい。
僕は教育者として、指摘しなければならない立場にいる時は指摘しますし、何度言ってもわからない場合には厳しく注意もします。
それは仕方のないことですし、やむを得ないときは “パフォーマンス” をすることもあります。
「人としての基準」がそれぞれありますから、僕も、

とは言いません。
ただ、頑張っている人や挑戦している姿を批判をしたり、ネガティブなことばかり言ったりしている人たちは、結果的に落ちて行って、最終的には誰も相手にしてくれていませんでした。
一方で、悪事を働いたことに対しては、然るべき批判を受け入れる必要があります。
現代の政府において僕が批判するのは、

と思うからです。
明らかに「正義」から逸脱している場合、僕は許せないのです。
かと言って僕は、個人を批判したりはしていません。
あくまで政策ややり方、道理に反している時のみ批判をします。
だから所詮は、どこまで行っても僕の価値観かもしれませんが、僕の価値観がそこまで外れているとするならば、僕の周りには友達なんて一人もいないことでしょう。
むやみやたらと人の批判をしてても、
- 人は離れるし
- 信用されなくなる
という最悪のケースが続きます。
生産的でないものであれば、他人の批判は早急に辞めたほうが賢明でしょうね。
ダサい大人になるな
とにかく僕が、生徒たちに大事にしてほしいと思っていることとは、

ということでした。
僕自身が教師でしたので、

と、常日頃から考えていました。
一方で、いい歳にもなって人の批判ばかりしては、自分は行動しないSNS民の数々。
これではもう、現実世界で差がついてしまう一方ですよね。
「ダサい大人」とは、
- 自分は一切行動せず
- 他人の批判ばかりをする
という、誰がどうみても「尊敬できない人」たちなのです。
僕らはこんな大人になってはいけませんし、Xやインスタグラムでそんな投稿を見つけましたら、
と思ってあげましょう。
関わる必要もないですし、怒る必要もありません。
ただただ「可哀想な人」であり、いずれは時代に淘汰されていくからです。
大切なことは、

ということです。
ダサい大人とはいつまでも自分の「ダサさ」に気づいていないからこそ、ずっと「ダサい」のです。
そう言いつつも、僕もそこまでかっこいい大人ではありませんでした。
言い訳もしていましたし、全然行動もしていませんでした。
毎晩、テレビを垂れ流しては他人を批判していました。

と、今ならはっきりと批判することができます。
もちろん、人間ですから失敗してもいいです。
ただ、自分の誤ちに気づけないまま生きていたら、その人はきっとずっと孤独のまま、誰も相手にしてくれなくなることでしょう。
人の批判ではなく自分を磨け
僕らがすべきことは、人の批判ではありません。
僕もたまに反論することはありますが、「やり合い」に参加したいわけでもありません。
20代の頃は何かと血気盛んだったものですから笑、「レスバ(=Twitter上での言い合いのこと)」なんかは嬉々としてやっていたと思います。(当時はそこまでTwitterが盛んではなかったのでありませんでしたが)
今は、

と、呆れ返っているだけです。
人の批判に明け暮れていますと、自分の時間がどんどんなくなっていってしまいます。
仮に人を貶(おとし)めることができたとしても、その人自身の評価が上がることはありません。
これが一番、残念なことですよね。
例えば一日数時間、「誰かの批判」に時間を割いたとしましょう。
そこで残るのは「虚無感」であり、批判対象の人がどんなに風評被害で失脚しようとも、自分の時間は返ってきません。
これをわかっていない人が多い。
要は、何の利益にもならないのですね。
だったら、批判をしている時間は「ただの無駄な時間」でしかないじゃないですか。

こう思うほうがよっぽど生産的で、価値のある時間じゃないでしょうかね。
- 人を批判している人
- 自分を磨いている人
この人たちが割いている時間の「質」だけを見ても、差がついていくのは明らかです。
いえ、そんなことはありません。
悪意があってやっているものではなく、今の体制の失策に対して批判をしているからです。
個人的には、これは「生産的なものだ」と思っていますね。
そうです。
だからこそ少人数だとしても、「路上でわけのわからない抗議活動」をしている人が消えないわけじゃないですか。
だから問うべきはシンプルに、
- ただのわがままなのか
- 価値のあるものなのか
- それで何かを変えたいのか
そういった「内容」が問われること。
これ自体は、問われるべきことだと思っています。
内容を見て、
と思われるような批判をしているのであれば、そこに価値はないということ。
その時間を自己研鑽(けんさん)に回し、自分を磨いている人たちのほうが、
- よっぽどカッコよく
- よっぽど尊敬に値する
のです。
おわりに
人の批判をしている暇があったら、もっと自分磨きに徹していたい。
これが僕の意見ですね。
たまにいけ好かない野郎もいますが笑、

と、反面教師にしています。
他人に目もくれず、自分を磨いている人ほどかっこいい。
僕もそんな人になりたいですね。
それではまた!
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