こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
期末試験も始まってきており、先生たちは俄然やる気がありません笑。
定期試験は基本的に午前中で終わりますので、先生たちにとっては有給休暇を消化するまたとないチャンスなのです。
さてそんな平和な日々が続くと思っていたのも束(つか)の間、英語科の試験(両面刷り)の中に1枚だけ裏面が白紙のものが混ざってしまっていたのです。
「え?別に大したことないんじゃ…」
とみなさん思われるかと思いますが、なんと生徒までもが試験の最後の最後まで「裏面はないものだ」と信じ込んでいたのです。
結果的になぜか管理職から「英語科、もっと注意してくれよ」というようなことを言われてしまいました。(?)
(その後、生徒には裏面の問題を解く時間を確保し、保護者に謝罪をしたのでとりあえずは無問題でした)
僕はこれに異議を唱えます。
失敗やミスをした時に、ヒューマンエラーは仕方のないことだと思っているからです。
もちろん、
- なんでもかんでも失敗していいよ
- 反省なんかしなくていいよ
とは思っていません。
僕はそのミスを叩くことに意味がないと思っているのです。
管理職の言い方も気になりましたが、結論から言いますと、
「もっと寛容になっていい」
と思った、ということですかね。
以下の記事も参考にしていただき、すずきの失敗の美学について見ていきましょう。
人間の業務にミスは付き物
今回起きたミスは、確かに僕ら英語科の「注意不足」でした。
しかし「それ以上でも以下でもない」と思うのです。
人間が行なう業務である以上、失敗は付いて回るものだからです。
「ではどうしたら失敗を未然に防げるのか?」と考えることはとても大切です。
なんとか運営側も考えるのですが、これがまた本当に無意味だと思わざるを得ないのです。
それはなぜか。
「単純に点検する回数を増やすだけ」だからです。
これ、本当に意味がないんですよ。
「点検回数があればあるほど、ミスが減らない」と勘違いしているようなので、何度も言わせていただきます。
人間が行なう業務である以上、絶対や完璧はあり得ません。
その理論でいけば「100回点検をすれば問題がない」という、「数による解決」に置き換わってしまいますからね。
今回の件はたまたまの不注意が重なったものではあったのですが、
- もとはと言えばコピー機の印刷ミス。
- 試験監督者も「問題用紙が両面刷りだからしっかりと確認しろ」と生徒に言っている。
- 当該生徒は試験監督者の話を聞いていなかった。
など、僕からすれば生徒に対しても「おいおい、しっかりしてくれよ」という思いが出てきて疑問が残りました。
生徒に謝りつつも「しっかりと話を聞いて確認しなさい」と注意もしました。
もちろん「ちゃんと話を聞いていなかったお前が悪い」と責めるのは、ミスの責任の所在を生徒に押し付けることになりますので、得策ではありません。
しかし、試験監督者が「問題用紙の乱丁・落丁がないか?」と確認したのに、生徒自身がその注意をしっかり聞いていなければ、「注意の意味」が全くもってなくなってしまうのも事実です。
大前提として、
- 先生たちも人間なので不注意やミスがある。
- 印刷がうまくいっていない問題用紙がある可能性もある。
- 最後は生徒たちにも確認してもらう。
こうしてミスを防いでおり、僕はこれで十分だと思っています。
最後の最後は、生徒自身が納得のいく形かどうかを確認することができるからです。
僕らが確認や点検をしていなかったことを認めないわけではありませんが、
「先生たちがしっかり確認してくれよ」(威圧)
という言葉がけに関しては、疑問しか残りませんでした。
- 人間なので失敗やミスはいつでも起こり得ること。
- 「今後注意してください」という指導が妥当であること。
- システムを抜本的に変えない限り、どうあがいてもミスはなくならないこと。
これらを念頭に置いておくことが大切です。
残るは「管理職全員で問題用紙をチェックする」などしか解決策はありません。
- 本当にミスをなくしたい。
- 先生の責任にしたくない。
そう思うのであれば「ミスが起こってほしくない」と思っている自分たちで点検するしかないのです。
先生たちを信頼しているからこそ成り立っている業務のはずなのに、失敗をしたら注意不足だと言われてしまう。
果たしてこのやり方で、先生たちは「信頼されている」と思えるのでしょうか。
失敗を叩く文化は、もうやめよう
毎日ぐうたらでミスばかり、てんでやる気のない人に対しては、ある程度の注意を促すことは必要かもしれません。
しかし今回のように、仕事上でふと起こってしまったミスに対しては「今後気をつけていく」以外に方法はありません。
何かしらの工夫が必要ですが、「点検回数を増やすこと」だけはやめてください笑。
「こういう事例がありましたので、今後注意してくださいね」と注意をするのも、上の立場にいる人の最低限のアクションとしては別にいいと思っています。
ただ、それでもミスがなくなることはないでしょうね。だって、人間だもの。
そのことをわかっていない人ほど、
- 強く注意をしておけばミスが減るだろう。
- とにかく点検の回数を増やせばミスが減るに違いない。
と勘違いをしてしまうのですよね。
何度も申し上げている通り、「ミスはするものだ」として構えていなければなりません。
ミスや失敗があった後、しっかりとその事実を受け止めてどう行動するかを決めておいたり、シミュレートをしたりしておくこと。
こちらの対策のほうが、よっぽど実用的ですしミスをした人を叩く文化がなくなっていきます。
とある学校では、全職員の目の前で反省を促されたりするそうです。
「これってパワハラなのでは?」と思ってしまいます。
ミスや失敗、間違いは誰にでも起こりうることなのに、日本(だけでなく海外でも?)はそれらを許さないような空気感がものすごく強いです。
以下の記事でも書きましたが、
人を叩けば叩くほど自身も息苦しくなり、生き辛くなってゆくのです。
- 失敗は許されない。
- またあいつかよ。
- そんなことをやっているようじゃダメだ。
- ちゃんと注意していないからこうなるんだ。
- 挑戦なんてするな。
- リスクはとるな。
と、ひとたび周りがマウントを取ってしまえば、言いたい放題できてしまうのです。
だってそうでしょう?
ミスや失敗をした側は申し訳なさでいっぱいになり、謝ることしかできないのですから。
「これが現在の謝罪会見なのかなぁ…」なんて思ったりもしてしまいます。
とはいえ失敗にも限度がありますから、「ドンマイドンマイ!」で片付けられるようなことではない事例も確かに存在します。
けれど全体的に、もっと寛容になっていいし、人に優しくなっていいと思うのです。
もうやめましょうよ。人を叩くことを。命がもったいない。
- 次にミスを防ぐためにはどうすべきだろうか。
- ここまできても出るミスは仕方ないのではないだろうか。
- ミスを最小限にするにはどうしたらいいのだろうか。
- こういう事例があった場合は、早急に〇〇することにしよう。
と、前向きに考えることが望ましいでしょう。
叩いていたって何も進まない。
停滞しているだけで、どんどん気持ちは滅入ってしまいますから。
もっと人に優しく、ミスを認めてあげる・許容してあげる文化にしていきましょう。
おわりに
コロナ禍を経て(現在進行中)、より人に厳しい社会になってきたような気がします。
ただ少しずつ、以前の生活を取り戻しつつあることで、また人々にも余裕や許容が戻ってきました。
みなさんには伝わっていると信じていますが、何も「失敗は何でもかんでも許されるべき」ということを言いたいわけではありません。
自分のミスを正当化するのではなく、様々な過程を経て起こった失敗なら仕方がないと言う感覚なのです。
特に一所懸命取り組んだ上で起こってしまった失敗なら、なおさら叩く意味がありません。
人生誰しも1周目の初心者なのですから、やってみて失敗することは当然のこと。
そこから何かを学び、次につなげていくことで人類は成長してきたのですから。
- 僕らだって
- 芸能人だって
- プロスポーツ選手だって
- 大富豪だって
- 天才科学者だって
小さな失敗を繰り返してきましたし、これからもしていきます。
それらの失敗やミスに対して真摯に向き合えているのであれば、あとは自分たちで失敗を分析し、成長していけばそれで十分なのです。
他人を叩くのではなく、自分を叩き上げる。
この考えをモットーに、失敗からたくさん「自身で」学んでいきたいと思います。
以下の記事も参考にしてみてください。
それではまた!
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