やることを探してたくさん仕事をしていくこと【多忙にならないコツ】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

少し前に読みました、堀江貴文さんの「ゼロ」という本の内容が印象的でした。

そこには、投獄された後の堀江さんの気持ちが綴られていまして、

もっと働きたい

という、純粋な言葉でした。

みなさんは、仕事をしている時にそのように感じたことはあるでしょうか。

もっと休みを取りたい
できればもっと手を抜いて働きたい

そんな風に思ったことはないでしょうか。

僕はありました笑。

でもそれは、生きていく上で「本質的なこと」ではないんですよね。

今日はそんな「毎日働くこと」について書いていきます。

誰かのために働くことは生きがいだ。だから毎日考えて生産して、生きていこう。

忙しいは怠惰の証

だいぶ前になりますが、リベラルアーツ大学の両学長がこんなことを言ってました。

多忙とは怠惰の証だ

と。

一見すると矛盾していますが、

これは「真」だな

と直観的に思いました。

僕が学校の先生(公務員)として働いていた時は、

とにかく時間内に出勤して、やることをやればいい

という感覚が強かったものでした。

もちろん、その中でできるパフォーマンスにもいろいろな種類がありますから、決して否定しているわけではありません。

ただ僕が「先生」を始めた当初は、

  1. 夜の19時か20時くらいに帰ってきて
  2. あとは深夜1時くらいまでは自由時間を過ごす

という、怠惰な生活を送っていました。

やったー。仕事も終わったしダラダラしよう

と、いかにダラつけるかを競っていました笑。

いやいや、別にそんなの普通じゃない?

と思われる方もいるかと思いますが、今の僕からしますとこれは『怠惰』の部類に入ります。

  • 部活で忙しい
  • 学校で忙しい
  • 行事で忙しい

と、何かと「フルタイム」を言い訳にしては、空いた時間をムダに過ごしていました。

多忙」の度合いは人それぞれあるでしょうが、「忙殺」という言葉があるように、

自らを忙しくて、思考停止になってはいないか

ということが、この言葉の真意だと思っています。

確かに僕も今のほうが以前より圧倒的に忙しいですが、

「多忙」という言葉を使うと、それはちょっと違うかな?

と思っています。

それは常に毎日やることがあって、生産している気持ちがあるからだと思っています。

先生をしていた時のことは否定したくないですし、その場所でどう働くかが大切なのであって、

会社員や公務員は何も考えていない

ということにはなりません。

ただ、

「多忙」という言葉を使う人ほど「怠惰」だ

とは思いますね。

僕がそうでしたから。

勤務時間中は流れに身を任せて(その勤務時間は自由度がない)、その時は「忙しい忙しい」と言いながらも、帰宅したら何もしない。

ご家族を持たれている方は、その後お子さんのケアや家族との時間があることでしょう。

でもそうやって一日が(考えずに)あっという間に終わっているとしたら、それは「多忙」であり「=怠惰」です。

厳しく聞こえますが、僕も過去を振り返ってみればそうでした。

もっと頑張らなきゃ

そう思った教員生活最後の1〜2年は、能動的に動いていましたね。

多忙にしている人は要注意だ。それは思考停止になって、何もしていないのと一緒だからだ。

毎日生み出すことを意識する

先日も似たようなことを書きましたが、今(あるいは教員後半)のほうが圧倒的に考えながら生きています。

先生時代のラストのほうも、かなりいろんなことに挑戦しましたし、

どうやったら豊かな生活になるだろうか?

と模索しては、

  • 学校にいる間も
  • 学校から帰った後も

常に何かを考えたりインプットしたりしながら、作業に当たっていました。

大変失礼ながら、

  • ムダな会議
  • ムダな資料作成

などはほとんど身になっておらず、それが “スキル” として今でも残っているとは感じられません。

それよりも、

  • 自主的な勉強会
  • 英文法の無料授業

のほうがとてもやりがいがあって、

どうやったらいいものを作り上げていくことができるだろう?

と常にコンテンツを考えていました。

結局は「考え方(=働き方)」なんだと思います。

授業準備も「どうやったらいいだろう?」と考えるほうが楽しくて、長期休み明けに「〇〇に行ってきたよ!」というプレゼン資料を作るほうが楽しかったです。(英語を教えろ)

授業をカリキュラム通りにこなしていますと、

早く終わらせなきゃな
適当に作って乗り切ろう

という邪(よこしま)な考え方が生まれてきます。

なぜかと聞かれれば答えは簡単で、生産的ではないからです。

自分で生み出していないと、『やらされている』という感情が芽生えてくるのです。

すると「手を抜こうとする力」が働きます。

できる限り効率的にやり過ごしたいから

と思うだけでなく、何も考えていないくても毎日が過ぎ去ってくれるからです。

だから思考停止に陥りがちの、「多忙」は危険なのです。

何かを生み出していくことを考えていきましょう。

毎日何かを生み出そうとするほうが、多忙感がなくなる。やりがいも生まれてくるのだ。

多忙でなくなるには?

では今の僕は多忙ではないのか。

とても忙しくはしていますが(そのように見せているだけ)、以前より自由な時間が圧倒的に増えました。

だから先述した通り、やはり「多忙ではない」というのが適切なのではないかと思っています。

自分の生活を豊かにしたければ、もっと働けばいいですし、

もういいかな

と思うのであれば、適当に働いてもいいわけです。

また、

人のために何かを作っていきたい

と思えば、それをお金に変えながらやりたいように生きてもいい

今の僕は、こちらの気持ちのほうが強いですかね。

また「単価(=自分の市場価値)」を上げることで、より働く時間を減らすという手法もあります。

この形を目指していくことも1つのやり方ですが、やはり「働きたくない」という気持ちは僕の性格的にも、人生の本質ではないと感じました。

要はどんな働き方をしようが、ちゃんと考えて生きているかということ。

僕は以前よりもだいぶ考えて生きるようになりましたが笑、実際それだけできていれば、

  • 単価が高いだの
  • 働く時間が短いだの

を考える必要はなくなり(というかどうでもよくなり)、“多忙” という状態から抜け出すことができます。

「働くこと」それ自体には様々な形があって、どれが良いとか悪いとか、そういった区別はありません。

ただ、僕が以前の働き方(教員初期)と、

  • 教員を辞める直前や
  • 今現在の「生き方/働き方」

などを比べてしまうと、圧倒的に後者(最近の僕)のほうが、生き生きと生きていることは間違いありませんでした。

それくらい、昔は思考停止状態で(=多忙に)働いていたということです。

今と比べれば、生活もなぜか豊かではありませんでした。

一方でその中で細々とやっていた「能動的な活動」は、自分の記憶にも色濃く残っていますね。

だから「多忙にしない方法」は一択。

  • いかに働きかけるか
  • 生産的で創造的な時間を生み出すか

なのですね。

あるいは多忙に見える仕事でも、そこに意味を見出したり、空いている時間を創造的な時間に使ったりといった工夫もできます。

人生を変えるなら、多忙である自分を認識することですね。

純粋に楽しいと思える人生を送っていきましょう。

多忙にしないためには、自ら動く必要性がある。そうして過ごした時間は、何にも代え難いのだ。

おわりに

自ら動き始めたここ2〜3年は、今までの若かりし20代よりも圧倒的に生産的で、とても楽しい時間となっています。

  • 学習も
  • 仕事も

自ら働きかけるような、そんな時間にしていきたいですよね。

一緒に人生を豊かにしていきましょう。

それではまた!

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