こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
同僚の女性の先生が、生徒対応でお疲れ気味でしたので、何か甘いものでも買っていこうと思い、帰りに和スイーツを買ってしまいました。
僕、ほんと買いすぎな気がしてちょっとやばいかもです笑。
そんな話は置いておきまして。
先日、生徒指導があったときに大きな声を荒らげるような、「叱る」というより「怒る」といった手法をとっている先生を、目の当たりにしてしまいました。
僕は冷静にじっと黙って指導を見ていましたが、
「手も震えているし、この人は本当に怒っているんだな…」
と思ってしまいました。
人間、時に感情的になることもありますよね。
以前も生徒指導について書いたことはありますが、今日はそんな「怒る」ことについて考えていきたいと思います。
「怒る」生徒指導は間違っている
僕は「怒る」ことに関しては、かなり気をつけるようにしています。
喜怒哀楽の中でも、特に自分を見失ってしまうのが「怒る」だと思っているからです。
この先生のように、確かに「感情的になること」のほうが普通だと思います。
指導中なのにもかかわらず、生徒が再び問題を起こしてしまったため、先生の怒りはピークでした。
しかし生徒側、つまり「怒られた側」に立ってみますと、
「あ〜先生ブチギレてるなぁ…」
とは思いますが、生徒が悪いことをしてしまったと感じられているかどうかは別の話です。
その時は生徒もビクッとしますし、「恐いな」と思うかもしれません。
しかし結局は、そのあとに「とうとうと反省を促す作業」をしなければならないのです。
先生側がカチンとくるかどうかは自由ですが、その勢いのままに指導に感情移入してはいけないと思っています。
生徒が未熟なことは当然のことですし、何度言ってもわからない生徒は星の数ほどいます。
そうした生徒には、
- 「ちょっとこっちへ来い」と言って呼び、
- 面と向かってみっちりと話す。
これが僕の指導スタイルです。(正しいとは言いません)
生徒に向かって「感情的になって怒る」ことはしないように心がけています。
中には、
- 「ビシッと怒ってやることで先生の威厳は保たれるのだ」
- 「一度わからせないと舐められる」
という先生もいらっしゃいます。
実際、僕自身もそれこそが「正しい姿」だと思わされてきました。
しかし、
- 長く先生をやってきた経験
- さまざまな教育関連の本を読んだ結果
から考えてみますと、大声を出して怒ることや怒鳴ることは、やっぱり正しいことではないという結論に至りました。
その結果として生徒に植え付ける印象は「恐い先生」であり、
「何か問題を起こせば、怒鳴られる先生」
として見られてしまいます。
しまいには「あいつキライ」と言われ、信頼関係が破綻する恐れもあります。
僕が大切にしていることは、生徒との信頼関係です。
まずは「この先生の言うことなら聞こう」と思わせること。
生徒から「聞こう」という意志すらなくなってしまっては、生徒指導に入ることができません。
僕は生徒の前では、あまり大きな声は出さないようにしています。
そこが指導の本質だとは、思わないからです。
「怒る」ことで失うもの
「怒っている人」の中でも特に「怒っている大人」を見る時ほど、いたたまれなくなることはありません。
- 感情的になって駅員さんに掴みかかる人
- 道端で口論する人
- 職場で後輩や同僚に噛み付いて、怒鳴り散らす人
なぜこんなにも怒ってしまうのか。
その理由は様々あると思います。
- 生活に余裕がない。
- 自分自身を客観的に見ることができていない。
- 感情に身を任せて生きてきた。
- 今まで「怒ること」に対して注意をされたことがない。
- 今まで怒られてきた人生だった。
- ただのストレス発散。
などでしょうか。
このように「すぐに怒ってしまう人」は、損をしています。
他人からの信頼をなくしているからです。
- 理路整然と相手に分かってもらおうと「叱る」のではなく、
- いい大人が明らかに感情をむき出しにして「怒る」。
これを見た人は、
「きっとこの人は、感情に支配されてしまう人なんだな」
と思ってしまうのです。
喜怒哀楽が激しいことは人間性の豊かさの指標ともなりますが、「怒」の部分だけは出してはいけない感情だと思っています。
「じゃあすずきは、イラッとしたり頭にきたりしたことはないのか?」
もちろん、あります。
ここで問題にしたいのは、それをどのような形で出すかだと思います。
怒りを暴力に転換するのは論外です。
他にも、
- 舌打ち
- 肩をぶつける
- 暴言を吐く
- ものに当たる
も論外ですね。
その時は「自分のストレスを発散すること」ができて気分が晴れるかもしれませんが、やられた側や、周りで見ている人はただただ辛いだけですし、悲しくなります。
では、生徒が間違ったことをしてしまい「危なかったじゃ済まされない」という状況であっても、果たして感情のコントロールをすべきなのでしょうか。
答えは「Yes」です。
どんな状況であっても、「怒る」という感情を出してしまうことは、何も得られるものがないと思うからです。
カッとなって頭に血がのぼってしまう時ほど、むしろ冷静でいられるように努めるべきだと思っています。
我を忘れてしまったら、取り返しのつかないことになりかねないからです。
対生徒でも、対同僚・後輩であっても。
どんな人であっても、怒られてしまった側は「不快感/不愉快」しか残りません。
1回きりのできごとだけであっても、「この人は恐い」という印象が強く残ってしまいます。
誰かがぶち切れてしまいますと、周りの人たちは「あいつ、なんなんすかね?」と思います。
だから、どんなに「怒りの感情」が湧いてきても、自分だけは失わないようにする。
これを守れるように、日々トレーニングしていきましょう。
怒らなければ人間関係も良くなる
こんな人を想像してみてください。
- ほんわかしていて、
- いつも笑顔で、
- 明るい人。
そんな人がいたら、
- 「この人と付き合っていたいな」
- 「一緒に話していたいな」
と思いませんか?
普段から「喜」と「楽」の割合を多くし、できる限り「怒」と「哀」の感情は抑えておく。
そのような人には人が集まりますし、逆の人からは人は遠ざかっていきます。
では「怒りを我慢すること」は良いことかと言いますと、もちろん身体的にも精神的にもよくありません。
しかし、誰かをターゲットにして怒りを発散することは、何があってもやってはいけません。
誰しも「怒りの感情」は沸くものですし、僕もイラッとすることはありますが、そんな時に「怒りの感情」とどう向き合えるかが大切です。
その人の真価が問われる瞬間です。
そんな「怒り」を、どのように捌(は)けさせるのがよいのか考えてみました。
- 音楽を聴く。
- 運動をする。
- 書き出してみる。
- 相談してみる。
- 飲みに行く。
- カラオケに行く。
- 瞑想してみる。
- △愚痴ってみる。
と、「他人を傷つけない発散の仕方」はいくらでもありそうです。
一番は怒りが湧いてきた時に「自分は今、怒ってしまっているな」とすぐに客観的になることではないでしょうか。
「あぁ自分、怒ってる怒ってる。落ち着け、落ち着け」
と、徐々に冷静になることができます。
先日、その怒っていた先生を見ていた僕は、
- 「手が震えちゃってるな」
- 「ここで僕まで一緒に怒ってはいけない」
- 「もし先生が部屋から出たら、生徒と静かに話し合おう」
と思いました。
「第三者の目線」に立つのが一番の方法です。
いわゆる「ドン引き」はいい手法だと思います。
怒りが湧いたら幽体離脱したように、上から「他の目線で自分を見る」と、案外落ち着けるものです。
その場その場で怒りを露わにせず、きちんと冷静に対処していきたいですね。
まとめ
今日は「怒り」についてお話ししました。
- 生徒指導において怒鳴ることは間違い。
- 一時的な「怒り」で信用を失ってしまう。
- 怒らない人には、人が集まってくる。
- 「怒りの感情」が湧いてきた時は、第三者目線に立つ。
- いくつか「怒りの発散法」の引き出しを持っておく。
どれも絶対解だというつもりはありませんが、怒った時やイライラした日は、間違いなく1日が台無しになってしまうことが多かったものです。
人の感情は伝播しやすいですから、他人も不愉快になってしまいます。
人間は感情的な生き物かもしれませんが、感情に従いすぎてはいけない時もあります。
理性で制御できるからこそ「人間」であり、僕はそれがいわゆる「大人」だと思っています。
「怒ること」で問題を解決できたことがあれば、何かしらの例を挙げてみたかったのですが、残念ながら思いつきませんでした。
- 「そもそも怒るような環境下にいないこと」
- 「怒るような人と付き合わないこと」
など、「怒り」とはうまく距離をとること(ドン引きすること)が、いいことです。
- まずは「怒る」回数を、できる限り減らせるようにすること。
- そしてイラッとしてしまった時に、どう対処するかを考えておくこと。
まだまだ修行は続きますね。
今後の人生も笑いと涙でいっぱいの人生になるよう、感情のコントロールを修行して身につけていきます。
それではまた!
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