こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
生徒さん、並びにいろんな友人たちと話していますと、
とか、
と、「べき論」を述べる人と会うことがあります。
僕はいつでも、
と思うようにしています。
だって、世の中に正解はないからです。
「昔からの慣習」でそうなっていることもあれば、国のプロパガンダ(=特定の意見や信念を広めるために情報を操作すること)として、「こうあるべき」とされている洗脳に近いものまであります。
僕はいつも思います。
と。
今日は「いろんな価値観を認めること」について書いていきます。
古い慣習について
先日、生徒さんと大掃除の話になりました。
年末が近づいてきますと、
と思う人が多いかもしれない、という話です。
しかし果たして、大掃除とは年末にしなければならないものなのでしょうか。
日本では「ご先祖様を迎える」とかなんとかというしきたりがあるのかもしれませんが、正直毎日部屋をキレイにしていれば、年末やら正月にやる必要なんてありません。
おそらく、普通の土日でも時間をとって掃除することはできます。(家族がいたり何なりと、理由はそれぞれあるのでしょうけれど)
さらに言えば、「年に一回」と決める必要もなくて、
と思う人がいてもいいはずです。
なぜ、年末にやらなければならないのでしょうか。
こうしたところに、僕はすぐに疑問を感じます。
もちろん、古いしきたりや意味のある文化もありますから、そんなことを言い始めたら、
と言うことすらできますからね笑。
僕が言いたいことはそうではなくて、
と思い込んで、何も考えていない人がいる、ということです。
僕はこうした考えを持っている人に、危機感を覚えます。
というか離れます笑。
- 長く続いている伝統
- そうだと思い込んでいる慣習
には、大いに気をつけるべきなのかなと。
伝統を重んじることはいいことですけれど、そうした点に固執することで「他を受け入れることができない」と言う人を多くみてきました。
得てして、そう言う人は柔軟性に欠けることがあります。
一事が万事だからですね。
他のことに関しても、あまり柔軟性がないのかなと思っています。(それも偏見笑)
それが回り回って、「多様性を認められないこと」へと繋がることもあります。
僕も、あくまで一部を切り取って言っていますから、
と、柔軟性と自分軸がバランスよく混ざっている人もいます。
実際僕もそうですし笑。
ただ、以前からある慣習を鵜呑みにしたり、「こうあるべき」と考えている人は、今一度考え直した方がいいです。
例えば、
とね笑。
「多様性」は口だけの人が多い
僕も人のことを言えるほど偉いわけではありませんが、
とか、
と言う、
- ヴィーガン
- フェミニスト
も中にはいます。
そういう人に限って、他人の多様性を受け入れられません。
多様性を本当の意味で受け入れるのならば、
- 年賀状だって送らなくていい
- 大掃除だってやらなくていい
- お年玉だってあげなくていい
わけです。
別にこれは僕の意見ではなくて、
と思えるかどうか、と言うことですね。
それがモラルに反していること、例えば、
- 駅構内でもタバコを吸っていい
- 図書館でうるさくしたっていい
- お金払っているんだからそれなりに文句を言っていい
など、意味を履き違えて「自分勝手に生きること」を主張するのであれば、それは許されないことですけどね。
多様性を都合のいいように解釈することは、それは “うまい口実” として『多様性』という言葉を使っているだけだということ。
本来ある意味を「侮辱している行為」とも言えます。
本当の意味で「多様性」を理解している人なら、
と言うはずだからですね。
これもまた、「なんでもかんでも許して認めてあげる」ということではありませんからね笑。
- 既成の慣習にとらわれることなく
- それぞれのあり方を認めてあげる
- かと言ってなんでもかんでもOKにするわけではない
難しいですけれど、ここら辺はそれぞれの柔軟性があるかどうかが問われているのでしょうね。
既成の事実を疑うこと
先ほどの「大掃除」もそうですが、僕は基本的に「こうあるべき」と、
- 偉そうに言っている人
- 相手に強要している人
には、すぐに、
と、すぐに疑問を投げかけます。
別にその人を変えたいわけではありませんが、
と言いたいだけなのです笑。
みたいな笑。(言い過ぎ)
もちろん、何度も書いているとおり、
- 批判に対して逆ギレ
- 忠告を受け入れない
- 何も考えずに瞬時に反応
という対応は、感情的になっているとしか思えませんから、控える “べき” です笑。
「柔軟であること」とは、ほぼほぼ「器が大きいこと」とも言い換えられます。
ダメなことに対しては、真っ向から正義を貫きつつも、
- 人が頑張っている時
- 多様な考え方を目の前にした時
に、批判することなく受け入れられること。
これが、僕の目指す像ですね。
特に既成の事実を疑うことのメリットは、
と、発想を広げられるところにあります。
こんな風に「世間で良しとされている(ように見える)こと」は、意外にも正しくなかったり、疑い深い結果を伴うことがあります。
そうした「大きな流れ」に対して、疑問符を打つことができているのかどうか。
それができて初めて「多様性」を口にしていいのだと思いますし、そういう人ほど安易に「多様性」という言葉を使いたがりません。
それだけ世界はグレーな部分で満ちていて「自分の正義を押し付けること」が、いかに狭い考え方なのかを知っているからですね。
と思う人もいるかもしれませんが、僕はそうした「既成の慣習」に目を向けられる人ほど、今後変わってゆくことを厭(いと)わない人だと思っています。
細かい話に見えて、実は根深い話です。
そうやって学校現場でも、
- 部活動
- スーツ出勤
- 残業代は出ない
など、当たり前のことがまかり通ってきました。
これは氷山の一角に過ぎないのです。
いろんな場面で起きている、『こうなっているから』ハラスメント。
僕はここに対しては、いつも疑問を持つようにしていますね。
おわりに
ちょっとした慣習にも、目を向けることはとても大事なことです。
今日は多様性に絡めて記事を書きましたが、いまだに「多様性」を勘違いしている人は多いです。
僕もそうならないよう、いつでも誰でも受け入れつつ、
- 倫理的にダメなもの
- 人としてやってはいけないもの
には「NO」を突きつけていきたいと思っています。
それではまた!
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