こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
旅を始めてからというもの、
と考える日々が続きました。
僕の世界一周の旅も、もうカウントダウンに入ってきていますが、
と感じています。
勇んで始めた世界の旅。
その送り出してくれた友人たちの期待に応えられるように、あるいは同時にそんな期待を感じないようにして、僕は毎日を過ごしてきました。
今日はそんな「期待」について書いていきます。
過度に期待に応える必要なんてない
結論から言ってしまえば、
「期待に応えようとする=他人の人生を生きること」
だと思っています。
誰かの「期待」によって行動を変えようとしてしまえば、それは自分の意志に反することになりますからね。
僕は「期待に応えない」ようになりました。
一方でその昔、「ザ・優等生」を目指しては、典型的な日本の学歴社会に飲まれていました笑。
多少は自分の求めていた「像」のエッセンスも入っていたのでしょうが、
- 何かしっくり来ないような
- 他人を目を気にするような
そんな生き方をしていたものでした。
期待に応えようとしなくなりますと、一気に「自分」でいられるようになります。
期待がいつの間にか負荷となり、肩に重くのしかかっていただけでなく、期待に応えられなかった時の自分を卑下していたものでした。
誤解を恐れずに言えば、日本にはびこるそうした「期待」とは、どこまで行っても「本人の妄想」でしかありません。
勝手に「期待をかけられている」と勘違いをし、「期待に応えよう」と空回りしてしまうのです。
実際に期待をかけられることは嬉しいことですが、負荷になるのであればそれは妄想に過ぎません。
そう思えるようになってからは、どこか肩の荷が降りたような気がしました。
もちろん、勝手に自分で背負っていたのですけれどね。
ただし託された思いもあることを忘れないこと
期待に応えようとすること。
これ自体を悪く言うつもりはないですし、僕がこの世界の旅を始めた時にも、薄々ですが「みんなからの期待」を感じていたものでした。
それは「期待」というよりも、「想い」に近いのだと思います。
という、期待に近いものに限らず、
- 心配してくださったり
- 楽しみにしてくださったり
した方々もいました。
期待に無理に応えようとするのではなく、そうした「みんなの想い」を乗せて旅をすることを、僕は最初から決めていました。
世界の旅は、なかなかできるものではないからです。
この「想いに応える姿勢」は、期待に応えようと空回りすることよりも、ずっといい姿勢だと思っています。
もちろん、それを第一に意識して、僕は旅を続けてきたわけではありません。
その「想い」は常に自分とともにあるだけであり、
と無理をしたり、強く意識したりしたことはありませんでした。
僕なりに僕の旅を楽しむ中で、日本にいる友人・家族からの気持ちを汲み取っていたような、それだけのことでした。
しかしこれが「期待に応えること」と大きく違うのは、とてもポジティブな気持ちになれるという点です。
ある意味、「勝手に妄想すること」それ自体は一緒なのですが笑、
と感じることができるからです。
期待に応えるのではなく、
- 想いとともにあり
- 一緒に旅をしている感覚を持つこと
旅を始めた当初から、「みんなと一緒に旅をする」というコンセプトがありましたしね。
送り出されるということは、何かの「想い」を受け取って旅を始めたということだからです。
あとは僕なりに消化することが、みなさんにとってもいいのかなと思っていましたから、「期待を寄せられている」とは感じていませんでしたね。
だから、「みんなの想い」があることは忘れないこと。
決して僕一人だけで、旅ができているとは思わないこと。
絶妙な考え方ですが、無理をせずにかつ旅をポジティブに進めるための、とっておきの考え方でしたね。
今を生きている意味を考えること
僕が「今」を大切に生きるようになったのは、迫り来る「最期」を意識し始めたからでもありました。
日本から送り出してくれた時に受け取った「想い」だけでなく、こうして世界を周遊できている「有り難い現実」に対して、深く考えるようにもなったのです。
- 一人では旅ができなかったということ
- 多くの人の想いを背負って旅をしてきたこと
それらだけでなく、新たに出会った人たちとの絆や、旅をしたくてもできなかった人たちの想いなど、「今」を生きていることそれ自体に、感謝するようになりました。
僕が旅を始め、続け、終わらせることができるのは、決して簡単なことではないかもしれませんが、かといってとても難しいことというわけでもありません。
ただ、
- 現実的に「できない」人
- 志半ばで倒れてしまった人
を考えてみれば、自然とその「奇跡」に驚くこととなります。
と。
この点においてもまた、強く意識しすぎる必要はありませんし、そこに想いを寄せること自体が傲慢だとも考えられます。
ただ、僕自身も旅を始める前に不安だったように、「できるか/できないか」で言えば、なかなか実現できるものではないということは間違いありませんでした。
だったら、そうした人たちの「想い」も乗せて、旅をしていくことが大切なのだと思いました。
それが「動画」という形になったのかもしれませんね。
何も、「自己満足の旅=ダメ」と言っているわけではありません。
僕の発信だって、多くの人に届いているわけではないですしね。
でも、そうした世の中にある「想い/気持ち」みたいなふわっとしたものを感じ取って、旅に肉付けしてくことは、僕の旅に「意味」を与えてくれます。
ただ自分で感じて進んでいくこともまた、それはそれで1つの形なのですが、僕にはどうしてもできませんでしたね笑。
こう思えているほうが、僕の旅に合っていた。
ただそれだけのことだったのでした。
僕にとっては、大きな意味がありましたけどね。
- 旅を続けるための
- 発信を続けるための
強い原動力となっていたからです。
多くの人の想いを背負うということは、見方によればとてもポジティブなもの。
知り合いだけでなく、「今」というこの瞬間を生きられている奇跡を感じれば、どんな「想い」も請け負って旅を続けることができるのです。
おわりに
僕の旅は、期待に応えるために始めた旅ではありません。
僕がやりたくて始めた旅です。
でも自己満足だけで終わらせないことは、僕にとって大きな意味がありました。
いろんな人の「想い」を消化(昇華)することができる旅でもあったからです。
別に頼んだわけでもないかとは思いますが、僕は勝手に「繋がり」を感じさせてもらっています。
想いを乗せて進めてきた旅。
その奇跡をまた改めて感じて、最後に向かいたいと思っています。
それではまた!
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