こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
生徒たちと話していますと、
- やれ陰キャだの
- やれ陽キャだの
そんな表現を耳にします。
これはいわゆる、
- クラス内で地味な子
- クラス内で活発な子
の違いでして、もちろん僕は「陰キャ代表」と言っても過言ではありませんでした笑。
人と関わるのも苦手でしたし、
と思っていたものでした。
ただ、大学でサークルに入ってからは、何かが吹っ切れたように多くの人と関わる楽しさを知ってしまいました笑。
今日は、
- 様々な人と関わる大切さ
- 人を先導していく器の大きさ
を書いていきます。
どんな人も受け入れる器とは?
僕の大好きな漫画、「ワンピース」では、主人公のルフィに対してチョッパーというトナカイのキャラクターがこんなセリフを言うシーンがあります。
ウチの船長なら怪物でも…!!
サイボーグでも 魔獣でも エロでも ネガティブでも!!
なんだって従えられる!!!
ルフィという人物の器のデカさゆえの、クルーの言葉です。
一方で、中学時代あたりからだんだんと自我が目覚めてきた僕は、地味な友達とつるむことをイヤに感じていたことがありました。
自分が「陰キャ」なのによく言いますよね笑。
思春期とは多感なものでして、できる限り、
- クラスの中心である人物
- 学年で力を持っている友人
にくっついているほうが、よいのだと思い込んでいました。
友人たちのことを「ステータス」として見ていた典型例ですね。
しかし、その曲がった考え方を変えてくれたのは、僕の高校時代の友人でした。
彼はサッカー部でなかなかの「陽キャ」の部類に入るのに、いろんな友人と分け隔てなく関わり、僕とも積極的に関わってくれました。
その姿を見て、
と、若いながらに思ったものでした。
それからというもの、クラスの「ヒエラルキー的なもの」を考えることはなくなり、できる限り多くの人とフラットに関わるようになりました。
これが、大学時代にも生きたのだと思います。
ただし、
- 気が合わない
- 話していてどこかズレる
ような友人とは、何回か話す上で離れるという決断もしました。
「全員と仲良くする」のは難しいものです。
ただ、初対面において偏見を持って接することはないに越したことはありません。
「実際に会って話して、その人の中身は分かる」
と、知ることができたからですね。
基本的には、できる限り多く、様々な背景を持つ人たちと出会うこと。
この姿勢を大切にするようにしています。
特定の人を選り好みしない
その人の醸し出す雰囲気や、クラスや組織での立ち居振る舞いも、確かに大切な要素です。
しかし、
- 外見
- ポジション
だけを見て関わることほど、長続きしないものはありません。
学生時代の頃の僕は、「そこについていくこと」で精一杯で、友人たちの「中身」まで考えることができていませんでした。
思春期なんてそんなものです笑。
だんだんと「人そのもの」を見ることができるようになったのは、恥ずかしながら実はここ最近のことでした。
離婚したことも、僕の考え方を大きく変えた要因だったと思っています。
一方で僕は、「外見も大切だ」と思っています。
それは、その人の「オーラ」みたいなものが出ているからです。
ただ、やはり最重要事項ではありませんよね。
- 話してみて、
- 知識や情報を共有して、
- お互いに尊敬できるかどうか
この辺りが落とし所なのではないかと思っています。
逆も然りでして、僕自身も相手の人格に見合う人間でなければならないということです。
そのために日々、自分を磨いていくことが大切になっていくわけですね。
友人を選り好みしてしまいますと、視野も狭くなりますし、特定のコミュニティの考え方に偏ってしまいます。
もちろん、なんでもかんでも広く、多くのコミュニティに参加すればいいというものでもありません。
ただ、視野を広く持つためには、いろんなコミュニティをのぞいてみる必要があります。
コミュニティやグループに限らず、様々な個人と関わることも大切です。
視野を広く持ち、柔軟な考えを持っていれば、さらに人は寄ってきますし、自分の「器」もだんだん大きくなっていきます。
自分を磨きながら、様々な思想や考え方を見ておくクセをつけておくとよいでしょう。
人にくっついて行くのではなく、自分が先導する。
以前の僕は、誰かが何かを始めてくれるのを待っていた側の人間でした。
今の仕事にもそれが顕著に現れており、だんだんと「自分の裁量権のなさ」に納得がいかなくなってきました。
しかしそれは、自分が「待っていた側の人間」であるがゆえに起こった、ごく当たり前のことでしかありませんでした。
だからこそ「人を選んでついていく体質」になってしまいますし、同時に「他人を受け入れる資質」が磨かれていきません。
そのように思い始めてから、様々なことが好転するようになりました。
いわゆる「陽キャ」についていくことは、思春期の子たちのポジション取りにおいては、死活問題でもあるため、全否定することはできません。
ただ、だんだんとその「意味のなさ」に気づき始めると、
と感じるようになります。
すると、多くの人と関わらざるを得なくなってきますし、「人を受け入れる器」も試されますよね。
同時に自分で自分のコミュニティをコントロールできますし、何より同じ意志を持った人たちが自然と集まってきます。
つまり、
- 気の合う仲間
- お互いが尊敬できる仲間
が集まることを意味します。
結局は中身や価値観が「同等の者同士」が、一堂に会するのです。
何かを始めるということは、何もないところに旗を立てることです。
その姿は勇ましく映りますし、魅力的にも見えます。(いわゆるクラスでいうところの中心人物)
- 誰かが何かを始めるのを待つのではなく、
- 肩書きやポジションの高い人についていくのではなく、
自分を磨き、より高い位置に旗を立ててみてはいかがでしょうか。
より人を受け入れられるようになりますし、何より多くの人が集まってくるはずです。
おわりに
人を選り好みせず、多くを受け入れることは、その人の中身を見ようとすることです。
その上で合わないのであれば、距離をとっても仕方のないでしょう。
そして何より、
「人を受け入れる器を持つこと」
は、先陣切って何かを始めていけば、自然と身についてくることです。
海賊王を目指すルフィに人が集まっていくのは、どんな人も受け入れる器を持っているだけでなく、夢に向かって行動し、自分を鍛えて、一番血を流しているからです。
僕もそんな人間でありたいと思うから、できる限り多くのコミュニティに顔を出し、いろんな人と出会うことで視野を広げたいと思っています。
そしていずれは、そんな人たちの前を走ることができるようになること。
いつまでも指を咥えて待っているだけでなく、積極的に行動していこうと思います。
それではまた!
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