こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
以前、熱くなることの大切さを語りました。
一方で、冷静さを持つ大切さと、悟りを開いたような平穏さを手にいれたということも記事にしました。
しかし先日、我が校の入試について指摘する意見が出るやいなや、
「どういう意味なのか全くわかりませんでした。教えてください」
と久しぶりに噛み付きました笑。(もちろん好戦的にではなく)
それはひとえに僕が入試という仕事に対するプライドを持っているからです。
- 僕がどうしてそのようになったのか。
- どうしてぶつかることにしたのか。
- 熱くなる意味はあるのか。
書いていこうと思います。
初めての入試業務で感じた悔しさ
何度か記事で書いたように「教員なりたてホヤホヤ」の時は、何も知らないクソガキの若造でした笑。
教員生活で初めて迎えた2月頃、入試選抜があるということで空気がピリピリしていることもつゆ知らず、
「すずきくん、やり方ちゃんと分かっているよね?」
と聞かれた時に、
「いえ。全くわかりません!」
と清々しいほどに堂々と応えたところ、「ふざけるんじゃないよ!」と事務の人から怒鳴られたことを覚えています。
その時ほど、カチンときたことはありませんでした。
「分からないものは、分からないじゃないか!」と。(逆ギレ)
今思い返せば、入試という緊張感の時期に、全くもってデリカシーのない発言をしてしまったと深く反省しています。
後悔はしていません。
もっとマニュアルを読み込んでおくとか、先輩に聞いておくとか、確かにやれることはいろいろあったでしょう。
ただ一方で、当時に抱いた悔しさがありまして、実は今でも根に持っていることがあります。
それは誰も何も教えてくれなかったと感じたことでした。
何もわからなかったのは、別にふざけていたわけではなく、本当に誰も何も教えてくれなかったからです。
だから「えも言われぬ悔しさ」を、ひとり感じていたのでした。
こうして8〜9年教員をやってきて言えることは、
- 「分からなければ自分で聞け」
- 「教えてもらうのを待つな」
- 「自分で考えろ」
という先輩の指導は、本当にひどい指導だということです。
僕はこれを「指導放棄」と呼んでいます。
新人は何もわからないのが当然なのだから、それを教えてあげるのが先輩の役目です。
そのために指導教官がつくのですからね。
上司が指導という仕事をサボった挙げ句の果てに「お前が聞きに来ないのが悪い」と新人に言うのであれば、新人の失敗の責任は完全に上司にあります。
もしあなたが何も知らない会社にいきなり入ったとして先輩がこんな状態だとしたら、同じように「分からないから自分で聞かなきゃ!」と思うでしょうか。(その姿勢は大切ですが)
何が分からないのか、分かってすらいないのに?
僕はそんな誰にも言えないツラい過去をぬぐい去るため(?)、あえてしんどいと言われている入試選抜の仕事を積極的に引き受けるようになりました。
そうです。
誰にも何も言わせないために、です。
新しく入ってきた後輩にも1から指導しますし、入試において何が大切なのかもはっきりと教えます。
それが、先輩・上司のあるべき姿だと思うからです。
反面教師から学び、反骨精神が生まれ、過去にリベンジするために、僕は反撃を始めたのです。
ぶつかることで、より生産的に。
僕はこうして初任の頃から入試の経験を積みに積みまくり、動きに動きまくることで、その「地位と市民権」を手に入れることができました。
今回僕は「サポーター役」で入試のメンバーに参加していますが、やはり例年通り意見する方がいらっしゃっいます。
これはとても生産的で、素晴らしいことです。
だからこそ僕も、メンバーとしてのプライドをかけて、億劫にならずに真っ向から意見をぶつけることにしてみました。
それは経験上、入試選抜グループの取りまとめが叩かれることが多いからですかね。
僕はその光景を見ることがあまり好きではないため、「まずはこちらと手合わせさせてもらえませんか?」と、遊撃部隊として戦いを挑みにいくことに決めたのです笑。
入試メンバーは何人かで一枚岩を作っていますしね。
騎馬戦でいうところの、大将の前にいる「壁役」です。
つまり標的を大将にロックオンさせず、こちらからあえて議論をしにいくスタイルです。
すると今後、指摘しようする人たちは必ず、
「くそ、すずき(その他大勢の取り巻き)がいるのか…」
と鬱陶しく思うこと間違いなしでしょう笑。
と冗談半分で書いてきましたが、要は僕もプライドを持って議論してきたメンバーの1人ですので、はっきりとモノをいう権利がありますし、今後もそうしたいと思っています。
何よりも入試という仕事を良い方向に導きたいという気持ちがあるだけで、そのために議論することは生産的で楽しいからです。
- 経験を持つ先生たちが疑問に思うこと。
- 新人たちがそもそも分かっていないこと。
- 初めての経験で戸惑っていること。
など、疑問や不明点が出るたびに、皆で解決していく。
その一端を担っている僕は、しっかりと議論をしてぶつかり、よりよい未来を作り上げていく責任があると思っています。
「何も知ろうとしない、お前が悪い」
という「指導放棄による被害」を今後生み出さないためにも、僕は周りの意見に対して積極的に応えていくつもりです。
熱い気持ちを次のエネルギーへ
今回、僕が「あなたの意見がまるで理解できなかったので、説明してもらってもいいですか?」と噛み付いたのは60代の大ベテラン先生でした。
ほんと自分が怖いです笑。
会議で発言した意味が本当に理解できなかったため、実際に職員室で「先ほどのあれって、どういう意味ですか?」と聞いてみたわけですね。
- 呼吸が乱れ、
- 体温が上昇し、
- 臨戦態勢になった
のは、久しぶりの感覚でした。
「冷静沈着マシーン」が聞いてあきれます笑。
少しずつ呼吸を戻しながら実際に話を聞いていますと、やはり「論点がズレていた」ことが明らかになりました。
「なんだ、そういうことを言いたかったのね」
と僕は腑に落ち、納得しました。
こうして「熱くなってしまった自分」を通り越しますと、
- 感情的になってはいけない。
- 落ち着け、頭を冷やせ。
- 戦うことが目的ではない。
と、自然とバランスを取ろうと落ち着き始めます。
以前の僕であれば、熱くなった後にムシャクシャしていたものですが、今はその「熱量」をうまく次の議論へ発展させるエネルギーに変えることができるようになりました。
大切なことは「その人自身を見て」攻撃的な意見をぶつけるのではなく、その人の意見自体に目を向けることだと分かったからです。
- 「ではその意見は入試業務の本質を突いているのか?」
- 「過去の経験則に基づいているが、自校で効果はあるのか?」
- 「論点のズレは修正したけれど、結局それは実行可能なのか?」
と考えて見ますと、
- 単なる個人的な意見。
- 経験に基づいて言い放った意見。
- 結果的に焦点を当てるほどのものではない。
- 自校で実行するメリットがあまり感じられない。
上はあくまで僕の意見ですが、このような形で、いただいた意見を改めてゆっくりと考え、総合的に捉えられるようになりました。
とはいえこれは裏を返せば、自分も自分の経験でしかモノを語ることができていないということも意味しています。
- その人の経験
- 自分の経験
- さらに第三者の経験
これらを突き合わせてから、「一番良いもの」を選ぶべきです。
だからこそ「ぶつかること」はとても大切なのです。
お互いの経験による「文化の違い」が生まれて、
「本校にとって、生徒にとって、教育的観点から見て、本当に良いことは何なのか?」
と、もう一度議論することができるからです。
たまたま僕が「熱い気持ち」を持っていたために生まれた議論でしたが、結果的に先のことについて考えるいいきっかけになりました。
議論して熱くなることは、「無理して避けるべきこと」というわけでもなく、次へと活力を生み出してくれるのです。
おわりに
過去の失敗から悔しさを感じ、経験を積み、いよいよ堂々と議論できるまでになりました。
僕がある意見に対して「それは意味がないと思うんですよね」と言ったとしても、まずはみなさん、しっかりと受け止めてくれます。
これは簡単なようですが、経験がないとなかなかできないものなのだと感じています。
説得力を伴わせるには、「経験を持っていること」が大切ですからね。
そこでお互い議論になるということは、「それぞれが掲げる正義」のぶつけ合いに他なりません。(ワンピースみたい)
どれが正しいかを競うことが議論なのではなく、みんなが目指していることは一緒で、よりよい未来なのです。
そのベクトルがブレなければ議論すること自体には大いに意味がありますし、そうして「正反合」の形をとっていくことで、年を重ねるごとに良い形に改善していくことができます。
どの意見も貴重であり、そこにそれぞれの意見をぶつけて生まれるアイデアもあります。
これからも臆することなく、「あなたの意見と僕の意見をぶつけ合ってみましょう」と手合わせを願って議論していこうと思います。
それではまた!
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