自分をラベリングすることはいいことなのか?【ありのままの自分で】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

友人たちと話していますと、

自分はこうこうこういう人間で…

と、それぞれがラベリングしていることに気づきます。

自ら言う人もいれば、

君ってこういう人だよね

と、勝手にラベリングされることもあります笑。

結論から言えば、別にそこに対する負の感情はないのですが、

自分のラベリングって、やる必要あるのかな?

と、毎度のことながら思うこともあります。

今日は「ラベリングの是非」について書いていきます。

ラベリングすることには、意味があったりなかったりする。いずれにせよ、ありのままでいることだ。そして成長してゆくことだ。

自分をカテゴライズする

こうした「ラベリング」の現象は、実は少し前に流行っていましたよね。

  • MBTI
  • 個性診断
  • ストレンクスファインダー

などなど。

僕はこれ自体を「ナンセンスだ」なんて切り捨てることはありませんが、一回やってみたのちに、

ま、そりゃそうなるだろうな

と結果に納得して、もうやらなくなりました笑。

  • 自分のことをわかっていない人
  • 自分を深掘りしたことのない人

は、一度やってみてもいいかもしれません。

でも自分のことをよくわかっている人は、別にやる必要なんてないのかなと思っています。

自分ってこういう人間だったんだ!?驚いたぜ!

と、新たな発見があるわけでもないですしね。

だからこうした「ラベリング」とは、一種の自己満足とも言えます。

もちろん、これらの診断を通して「自分探し」をしてゆくことも大切ですし、僕の友人にもそうした診断士やサポーターはいます。

しかし、どこかで「自分を突き詰めること」の限界は来ますし、

自分はこうなんだ!

とカテゴライズすることができたとしても、相手からはまた違って見えたりもします。

あくまで個人的な意見ではありますが、こうした診断系のサイトやサービスは、一回(あるいは数回)やれば十分なのかなと。

ラベリングすると言っても、誰かが「用意したもの」の枠内にしか収まりませんからね。

人間とは、そんな簡単に「カテゴリー」に分けられるものではありません。

え?!君も血液型A型?じゃあ僕と性格が一緒だね!

なんてことにはなりませんよね笑。

あくまでカテゴライズやラベリングは「指標」でしかないということ。

自分と付き合っていくために必要だった

と思ってやる分には、いいのかなと。

また、さらに専門的な分析が必要だと言うのであれば、専門家に聞いて自分を突き詰めていけばいいのではないでしょうか。

自分にラベリングを付(ふ)したとしても、誰かが作ったカテゴライズに自分を当てはめただけに過ぎない。それから自分がどう活かしたいのかを考えていこう。

自分を安心させるために

実は僕は、この手の「ラベリング」をしないようにしています。

コロナ禍で自分とたくさん対話しましたし、もう大人なので、ある程度、

自分はこんな感じの人間だろう

ということが、大体わかっているからです。

確かに、自分をどこかのカテゴリーに入れることで、多少なりとも「安心」することはできると思います。

しかし、僕が正直に思うところとしては、

それで終わり

なのではないかなということ。

わかるとすれば、

自分ってこういう人間なんだ

ということくらいです。

それに加えて、付き合う相手に対して、

こういう人間なんです

と伝えることができることかなと。

ただ、後者に関しては、

はぁ…そうなんだ。それで?

と思われてしまいます。

相手からしたら、その人が自分で診断した「ラベリング」はあまり関係なくて、

あなたの性格や人格に関しては、こちらで判断させてもらう

と言われるだけでしょう。

やはり意味があるのは「自己分析」のためじゃないでしょうかね。

そうやって自分をラベリングすることで、安心したい人とは一定数いるものです。

僕の場合、「自分を安心させたい」というわけではありませんから、やりませんね。

先に書いてきた通り、

  1. 自分のことはある程度わかっている
  2. 自分の「見え方」は他の人が勝手に判断する

と、僕なりには結論が出ているからです。

安心材料のためだけに、自己分析をしていても意味はありませんからね。

なるほど。自分はこんな感じの人間で合ってるのね

とわかったら、要は自分のことが見えてきたら、その後にどうしたいのか。

それを考えることですね。

自己分析をしてラベリングすることは、一種の安心材料だ。そこで満足するのではなく、だからどうしたいのかという具体案を持ち、次の行動に繋げていこう。

ありのままで

僕はそうした占(うらな)い的な、あるいは診断的なことも遊び半分でやりますが、だからと言って何かを変えるというわけでもありません。

僕は僕で、ありのままに生きてゆくだけのこと。

もしかしたら、どこかで何かがコロッと変わるかもしれませんが。

なんなら今年の2025年は、政治の世界にどっぷりとハマってしまいましたけどね笑。

もちろん、それで僕の性格や生活が変わったわけではありません。

人の性格なんて、そんな簡単には変わりませんし。

こうした「自己診断」もある程度は有用だとは思いますが、やはりそれでも、

ありのままの自分でいれば、それでいいんじゃない?

と思うのです。

結果は結果として受け止めておきつつ、変えられるところはマイナーチェンジでもいいから改善していけばいい。

どうしても変えられない性格というものもありますから、自分のラベリングをした後に「受け入れなければならないこと」もあるわけです。

性格を変えたくて、診断をするわけではありませんものね。

どこまで行っても「自分は自分」であって、だからこそ魅力あるものです。

俺/私はこういう人間なんだ

と、誇っていいわけです。

ただ当然のことながら、人として未熟なところは改善していきながら、どんどん成長してゆく必要はあります。

自分はこういう性格なんで。だからみんなわかってくれるよね?

という意見も確かに間違ってはいないのですけれど、自分がまだまだ「改善の余地あり」がある状態であるのであれば、気づいて変えてゆく必要はあります。

  1. 自分の性格を受け止めつつも
  2. 人として変えるべき改善点は改善してゆくこと

みなさんの「ありのまま」を受け止めてくれる人もいますし、それが本来の生き方です。

それでも、僕がコロナ禍(教員時代)にいろいろと改善したように、成長させられる点は成長させていきたいですし、いつまでも新しいことに挑戦していきたいですよね。

  1. 自分をラベリング
  2. そのままの自分でいること
  3. 同時に改善点があれば手を加える

こうして改めて見てみますと、「自分のことを分析すること」とは、むしろどこまで行っても「始まり」でしかないことがわかります。

何度も書いてきた通りですね。

結局は、自分のありのままの性格に戻ってくるというだけのこと。

そうやって、自分のことを受け入れていきましょうね。

自分のことを知ることは、実はこれから生きていく上での第一歩でしかない。ずっとありのままでいよう。そして成長していこう。

おわりに

自分のことをラベリングするのは面白いことでもありますし、これからの指針にもなります。

深掘りをしようと思えば、かなり時間がかかるものではありますが、一方で「すぐにわかること」でもあります。

何度診断をやっても、性格とはそこまで大幅には変わるものではありませんよね。

たくさん自分と対話をした上で、そこをスタート地点とし、また次に向かって歩いていきましょう。

それではまた!

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