こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、大阪に行っていた際に電車に座っていますと、隣の女子高生が眠気からか僕の肩に寄りかかってきました。
以前は高校の先生をやっていましたので、別にドキドキすることもなかったのですが、
と思いました。(事件)
昔から年下の子たちが頑張るのを見ているのが好きで、それは男子だろうと女子だろうと、あるいはどちらにも属さない子だろうと、いつも応援しています。
もちろん、隣の「おっさん」が寄りかかってきても、
と思う程度です笑。
今日はそんな僕の「全てを愛すこと」について、改めて書いていきます。
変わってきた心情
以前も、慈悲心について記事を書いたことがあります。
この記事内でも、
と、自分でそう言っています。
以前は、「いかに人から嫌われないか」という感覚しか持ち合わせていませんでした。
これはいわゆる「他人のレール」を生きていることを意味します。
つまり、
- 好かれればOKで
- 嫌われたらダメだ
という、固定概念の上に生きていることになるからです。
100人いて100人から好かれるなんて、不可能なのに。
そしてその点について気にしない人ほど、結果的に「好かれる」人になれるのだと、改めて感じました。
人の評価を気にしなくなりますと、「自分が与えている愛」に集中することができます。
ちょっと宗教的に聞こえますが笑、「相手から受け取ること」(=人からの評価)ばかりを気にしていることは、TAKERでもあるということを言いたいのです。
もちろん、
という意味ではありません笑。
要は、自分から発せられているベクトルのほうに意識を集中させ、受け取るほうのベクトルはあまり気にしなくていいということなのです。
電車での女子高生の寄りかかりも、別に相手がどう思おうと、
と思っておくことが大事だということ。
その後、彼女がどう思うかは彼女次第なのですから。
「人に与えること」の中にある、具体的なGIVEも大切ですけれど、
- 自分からのベクトルなのか
- 自分に向けられたベクトルなのか
に注目することもまた、大切なことなのですね。
嫌われる勇気
僕がブログを始めたあたりから、ずっとバイブルとして紹介してきました「嫌われる勇気」。
リンク
という事実に気づき、どう解釈するかで、人間関係は劇的に改善されます。
僕の気持ちが変わり始めたのも、この書籍を読んでからでした。
読了後は、実践に次ぐ実践が必要でしたけれども、「人の役に立つこと」を徹底的に続けていくことで、人との壁や摩擦は解消され、いろんな人と関わることができるようになりました。
- 多くの人から好かれようとも
- できる限り嫌われないようにしようとも
思わなくなったのです。
ただただ、
と考え抜き、実行に移していくようになりました。
あまりにもシンプルですが、この行動を続けていますと、誰からどう思われているかなんて気にならなくなってきます。
すると、
- 人を愛すようになり
- 愛されることを求めなくなる
という、「神がかった状態」になることができるのです。(なんだそれ笑)
これこそが、
という気持ちにさせてくれるのですね。
もはや「勇気」と表現するほどのものではなくて、いい意味で「無関心」なのです。
そこに意識があるうちは、
- 承認欲求
- 人の目を気にする
といった、「他人の反応ありきの人生」となってしまいます。
以前の僕はそうでした。
これがなくなりますと、目の前の人を「フラットに」見ることができるようになります。
だからこそ、電車で女子高生から寄りかかられた時も、「慈悲心」のほうが勝(まさ)っていたのかもしれませんね。
人から嫌われているかどうかなんて、考えている場合ではないのです。
もっと「自分にできること」に集中し、目の前の人としっかりと向き合っていくのです。
誰とでも仲良くは幻想?
僕が思うに、「誰とでも仲良く」というのは、なかなか難しいのだと思っています。
自分で言うのもなんですが、僕は以前に比べてだいぶ「懐(ふところ)」が深くなりました笑。
それでも、自分が不快に思うようなTAKERからは離れるようになりましたし、「情報」といった意味でも不愉快なニュースを見た直後に、
と思っては、すぐに見なくなりました。
いろんな人に愛を与えられるようになったのは、
という大前提に立つようになったからでもあるのかもしれません。
ある意味「割り切って」いるのです。
「自分の好きな人だけと会う」にもいろんな形があって、僕のように本当に様々な人と出会うこともあれば、少人数とだけ会っては自分の世界を形成していく人もいます。
僕も「誰とでも仲良く…」は不可能だと思っていますが、一方で、
と意識していることは間違いありません。
そうでなければ、世界一周中に多くの人と話すことはないですからね。
仮に疎遠になってしまう関係の人がいたとしても、それはそれで僕に「何かしらの影響」を与えてくれたことは間違いのないことです。
その後付き合っていく中で、自分で人間関係を取捨選択できれば、それでいいのではないのかなと。
そうした、
- 前提条件
- 可能性のある未来
を見据えておけば、誰にだって愛を与えることはできます。
それでもテイクしてくるようであれば、もうそれは仕方のないこと。
基本的には「性善説」に立って、
という気持ちを持っておくことです。
「愛を与えたい」という気持ちは、ただただボランティアに徹するということではなくて、しっかりと自分の軸や時間を大事にした上で人と接していくことです。
世の中の全員と触れ合うことが不可能であるように、近い人とでもうまくいくとは限りません。
逆説的かもしれませんが、その前提を持っているほうが、フラットにいろんな人と話すことができるのではないかと思っています。
おわりに
以前から変わり始めた僕の心境。
考え方が変わったことが大きな変化でしたが、
と思ってから、周りのいろんな人を愛せるようになりましたし、関係を断(た)った人たちのことも、決して「大嫌い」ということではありません。
この程度であり、それ以上でも以下でもないのです。
仲良くはなれなくても、フラットでい続けることはできるのかなと。
いずれにせよ、以前よりもだいぶおおらかになりました。
今後も電車で隣にどんな人が座ってきても、肩を貸せそうですね笑。
それではまた!
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