ずっと頼られる存在でいてはいけない難しさ【本質は生徒の自走】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

オンライン講師として英語を教えていますと、自分の能力に気がついてきます。

  • 大学院卒
  • 予備校講師5年
  • 公立高校で9年

などに加え、世界一周をした男からしますと笑、

あれ?意外と僕って経験豊か?

という自覚が芽生えてきました。

オンライン講師はランダムで教えることもあって、プライベートとは違っていろんな人と授業ができます。

ゆえに、こんな経験の持ち主ですから、

先生がずっとこのプラットフォームにいてくれると嬉しい

とありがたいお言葉を頂戴することもあります。

今日は「頼られることと自走」について書いていきます。

先生は頼られる存在であっても、生徒が自走することを目指さなければならない。

頼られることは嬉しいけど…

先生として職に就いて9年もやりますと、いろんな経験があったことが思い出されます。

  • 生徒の相談
  • 組織として動くこと
  • 保護者との三者面談

先生とは特殊な仕事ですが、人から尊敬されたり、頼られたりする存在であることは間違いありません。

僕も若い頃は承認欲求があり、血がたぎっていましたから笑、

頼られるって嬉しいなぁ!

と感じていたものでした。

しかし長く先生を続けてきますと、

これはどの仕事も一緒なのだ

と気づくようになります。

頼られるのは何も、先生だけではないということ。

どこかの相談窓口もそうですし、全ての仕事において感謝としての「対価」が発生しています。

それを受け取るたびに一喜一憂していても、長くは続かないということです。

だから先生に限らず、どの人も意識しておかなければならないのは、

  1. 最初のほうは喜んでもいいけれど
  2. 徐々にその責任を感じて当然のように行うこと

だと思っています。

最初は嬉しいですし、僕が事業を始めて最初にいただいたお金はとても嬉しいものでした。

しかしそれも慣れてきますと、感謝をしなくなるというより、

全力でやらせてもらいます

という気持ちが出てきます。

人に頼られることは誰だって嬉しいことです。

それを押し殺す必要もありませんしね。

ただ、だんだんとそれだけに終始しないようにしていかなければなりません。

先生であれば、どこかで生徒を卒業させなければなりませんからね。

それが先生たちの「使命」であり、本当の意味での「仕事」なのです。

誰だって頼られることは嬉しい。ただしそればかり感じていても長続きしない。その後のことも考える必要がある。

生徒の「自走」とは?

僕は以前、「伴走」についての記事を書きました。

「誰かに頼られて長く指導を続けること」は、僕の理想でした。

一方で、今こうして高単価で英語教育の伴走をやっていますと、

本当にその人に英語を話せるようになってほしい

と、切に願うようにもなりました。

  • 人に頼られ
  • 伴走していくこと

は理想的な形ですが、先述した通り「卒業」もさせなければなりません。

生徒のみなさんが、

  1. 自分で英語の勉強法を見つけ
  2. 自分で英語の世界に飛び込んで成長すること

が、僕の望む未来なのです。

生徒のみなさんが自分で解決するためには、いつまでも僕に頼りっぱなしではいけません。

なぜ僕がそう思うのかと言えば、もちろん多くの生徒を卒業させてきたからということもありますが、何より、

自分が一番、自分で自分の道を切り拓いてきた

という自覚があるからです。

誰にも頼らずに、ほぼ独学で英語を習得してきましたし、世界一周もしました。

自分で戦い抜くこと」がいかに大事かを、僕が一番感じているのです。

僕の体も当然のことながら1つしかありませんし、時間だって限られています。

そんな中で「せいじ先生せいじ先生」と来られましても、いつまでも相手をすることはできませんからね。

だから「自走」が大事なのです。

先生として一番大事なことは、「頼られる存在」になるのではなく、

  1. 彼らの力を引き出し
  2. 自分で自分の夢に向かうこと

を後押ししてあげることです。

キレイごとにも聞こえますが、教師になりたての時の気持ちとはもう違います。

もうやるべきことは教えた。だからあとは自分で飛び込んでいかなきゃダメだよ

と。

本当に楽しいのは、自分でいろんなことができるようになった時です。

みなさんも高校生や大学生になって、自由度がグンと高まってから、楽しくなったこともあったかと思います。

僕ができるのは最初の部分だけ。

それからは生徒に任せているのです。

先生の仕事は、いつまでも頼られる存在であり続けることではない。生徒がいかに自走できるようにサポートできるかが勝負なのだ。

種を蒔く人であれ

僕は2つの学校に勤めましたし、社会人になってからもいろんな人と出会い、別れてきました。

それが一生の別れである時もあれば、彼らの夢を願って卒業させたこともありました。

僕はいつまでも、「種を蒔く人」でいたいのです。

種を蒔いたら去っていく。

生徒に、

  • 英語や生き方
  • 自分の知識と経験

を伝えてゆくこと。

それが正しいかどうかが問われているのではありません。

日本の多くの教師が(僕も含めて)、

間違ったことは教えられない

という意識を強く持ち過ぎています。

  • 自分がやってきたこと
  • 自分で一所懸命切り拓いてきたこと

には、プライドを持っていていい。

いい意味で、自信を持って教えてあげていいのです。

そこに「価値」を感じてくれた人に、全力で全てを注ぎ込むこと。

そうやって種を蒔いていくことが、僕の使命(ミッション)であると、そう思っています。

最初の「水やり」は確かに大事ですが、あまりにも水をやり過ぎてしまうと、花はダメになってしまいますよね。

親たちの目的が、当然のことながら「子どもたちを一生家にかくまっておくこと」ではなくて、

子どもたちが自立して旅立っていけるように

という願いであるように、先生も仕事とはいえ、いつまでもお金をもらうために指導していてはいけないのです。

先日見たこの動画もまた、僕の教育観に近いのかもしれません。

僕は「先生」として『最初のハシゴ』をかけることはします。

同時に、

どうやったら自分の足で歩くことができるだろうか?

についても考えておきます。

先述した通り、

  • 最初は喜んで引き受けるも
  • 徐々に知識と経験で満たして一人立ちさせる

ようになっているからです。

個人事業でも一緒です。

自分の生活なんてあとからどうとでもすればいい。

お金は大事ですし、いただくことにも抵抗はなくなりました。

しかしやはり、その先にある「生徒さんたちの未来」に責任を持って伴走してあげることが、今は大事だと感じてならないのです。

その後の自走も考えておくこと。

それこそが「種を蒔く人」のあり方だと思うのです。

僕は種を蒔いて水をやる人でありたい。でも最後には、その人が自分で自分の人生を切り拓いていける未来に繋がることを、心の底から望んでいるのだ。

おわりに

先生とは特殊な存在でもありますが、同時に「尊敬されること」や「頼られること」に甘んじていてはいけません。

その先を見据えて、自分に一体何ができるのかを考えること。

いつまでも僕が横にいるわけではありません。

自分の足で歩いていけるように、今日も種を蒔いて水をあげようと思います。

それではまた!

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