我慢や忍耐は人生において必要か【耐え忍んだ先に見えるもの】

読書

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日から読んでいます「限りある時間の使い方」ですが、その中でも「我慢や忍耐」についての章がありました。

世間(特に日本)では、

我慢や忍耐は必要だ

という意見もありますが、僕は一部賛成で、一部反対かなと思っています。

ケースバイケースにもよりますが。

今日は「我慢や忍耐」について書いていきます。

我慢や忍耐は時に必要だ。しかしそれを正義としてしまうのも危険である。自分の成したいことがある時には、必要なものだろう。

我慢や忍耐を押しつけるのはやめよう

先にお伝えしておきますと、我慢や忍耐といった「精神論」は個人的にあまり好きではありません。

ただ、不要かと言われればそうでもないのがまた難しいところです。

我慢や忍耐をどう定義するかにもよりますが、

  • 我慢:辛い事を耐え忍ぶこと。
  • 忍耐:苦しさ、辛さ、悲しさなどを耐え忍ぶこと。

と、両方ともほぼ同義です。

人生において苦難とは幾度となく訪れるものですので、そのような「ツラい状況」は耐え忍んでいかなければなりません。

ただ、

我慢や忍耐こそが全てだ

と言い切るのはやめましょう。

例えば、

  • 満員電車に揺られてでも出勤する。
  • 会議で非生産的なことをずっと聴く。
  • どう頑張っても変わらない環境に身を置き続ける。

これらのことを耐え忍ぶことは、一見かっこいいかもしれませんが(そう?)、いつか必ず限界が訪れます。

そこに対して、我慢や忍耐といった高尚なアクションを取る必要はありません。

我慢や忍耐をした先に、何も待っていないからです。

それならば、さっさと次のステージへと行ってしまいましょう。

これを「損切り」と言います。

  • 自分にとって無益
  • 精神的にダメージを食らう

といった、「身を削ってしまうもの/時間を食ってしまうもの」に我慢や忍耐をする必要はありません。

我慢や忍耐が全てであるならば、

  • 長い時間をかけたもの
  • 激しい痛みを伴ったもの

が正義となってしまいます。

僕はそれは「違う」と思っています。

「効率的に動けばいい」とは言いませんが、それらは不必要な我慢や忍耐だからです。

自分で考えた上で、

あ、これは自分の時間や体力、精神を無為に削ってしまうものだな

と思ったら、すぐに飛び出しましょう。

それは人生にとって、もしかしたら意味のないものなのかもしれないからです。

我慢や忍耐が好印象である時代は終わった。自分にとって無益であったり、身を削らなければならなかったりするものならば、損切りしていこう。

成し遂げたいことがあるなら耐え忍ぼう

実際のところ、

我慢や忍耐は時代遅れ

と言われることもあります。

精神論はもう聞き飽きたよ

と吐き捨て、科学的分析による時間効率を求めてしまう人も後を断ちません。

  • スポーツは科学を駆使して、効率的に鍛える方法が主流となりました。
  • 大学受験も、短い時間で最大の効果を発揮できる勉強法を教えるようになりました。

これらの点については、僕は何も間違っていないと思っています。

そもそも人生は短いものですし、何かを成し遂げようと思うのであれば、時間はいくらあっても足りないからです。

さらにトップアスリートや敏腕のビジネスマンは、さらにそこから追い込んでいるのだと、様々な本を読んで知りました。

箕輪厚介さんの「死ぬこと以外かすり傷」でも、自分の時間を思いっきり仕事に費やしている姿を見て、

自分はまだまだだなぁ

と感じたほどでした。

そういった意味では、「我慢や忍耐」は必要になってくると思っています。

しかし僕は、彼らが、

  • 投げ出したい
  • 苦しくて仕方ない

と感じているとは思えません。

その先にある、自分の求めている何かがあるからこそ、ずっと働き続けているのではないかと。

そのためには、ツラいことや苦しいこともすんなりと受け入れられるのですね。

それがたとえ、

  • 原始的
  • 非効率的

であっても、時には時間をかけてやらなければならないこともあります。

初めて挑戦することは、時間効率を考えている暇がないものありますし、失敗もあればムダだと思うことばかりで時間を食ってしまうこともあります。

しかし、それらは必ず経験として蓄積されるため、結果的には「生産的なこと」となるのです。

将来の何かに向けて行動することは、決してムダなんかじゃない。

その時こそ「耐え忍ぶ」時なのです。

将来成し遂げたいことがあるのであれば、それまでの時間は大した問題ではない。効率なんか考えずに、ガムシャラにやらなければならない時もあるのだ。

耐えた先に見えるもの

本書では、

1つの美術作品を3時間見続ける

という課題の話が出てきます。

先に言っておきますが、僕だったら発狂します笑。

しかし著者は、

「ずっと見続けていると、ある一定のラインを超えることがある

と語っています。

最初の30分くらいは、

俺は一体何をしているんだろう

と思っていたそうなのですが、だんだんと作品のディティールや、ふとした発見があるそうなのです。

僕はこれを「ムダなものだ」と一蹴しようかと思いましたが、ふと自分自身も、

  • 読書
  • サウナ
  • 美術館

など行なったり行ったりしては、長い時間をかけていることに気づきました。

確かに僕ら現代人は、現代社会のスピードに慣れすぎてしまい、じっと立ち止まることをしてきませんでした。

明らかにムダなものや非生産的なものは、自分の中で損切りをすべきですが、一方で読書や映画など、じっくりとインプットの時間を取ることも大切であるということを失念していました。

ただこれらもまた、「我慢や忍耐」とは異なるようなイメージがあります。

いやいや!美術作品を3時間ってのは、明らかにレベルが違うでしょ!

確かに僕も興味のない作品はバンバン飛ばしますが、とても興味深い作品は、ある程度の時間見ることができるとも思っています。

それはやはり、興味や関心からくる好奇心を伴ったワクワク感があるからでしょう。

3時間が長いか短いかは人や状況によりますが、そう言う意味では「何かにじっくりと取り組んでみる」ということには、一部賛成しています。

「苦痛だ」と思うラインを、どこかで超える時もあると思うからです。

僕はすぐに「損切り」することを推奨していますが、時に立ち止まって内省することも大切な時があるのですね。

映画も見始めは、

内容もわからないしこれから2時間か〜

と思ってしまうものですが、少し経てば没入してしまうものです。

  • 勉強も然り
  • 仕事も然り

ですね。

一見すると苦しそうなものでも、自分の意志をしっかりと持って取り組めば、苦痛に耐え忍んだ先に見えてくるものがあります。

それを求めて、僕はブログや筋トレを続けているのかもしれませんし、もしかしたら何も得られないかもしれません。

意味があるのか、意味がないのかは、人それぞれの価値観ですし結果論でもあります。

自分にとって「正しいもの」を探していく時間もまた、ムダのように見えて必要な時間なのかもしれませんね。

長い時間をかけて何かに取り組むことは、時にゾーンに入ったり新しい発見に出会う機会となりうる。自ら取捨選択すれば、長い時間をかけて、耐え忍んで取り組むものがあってもいいのかもしれない。

おわりに

我慢や忍耐は、実はあまり好きな言葉ではありません。

解釈の問題かもしれませんが、僕は「苦行」よりも「修行」のほうが好きだからです。

若干「変態臭」が出ていますが笑、時に耐え忍んでから見えるものもあるということも、身をもって知っているからです。

自分自身で、耐え忍ぶ必要のあるものを探し出すのもまた人生。

みなさんにとっての「我慢や忍耐」は、いつ必要になるでしょうか。

ぜひ考えてみてくださいね。

それではまた!

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