しっかりと自分を見る時間を作ること【自分との対話をする男】

幸せ

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

2025年の夏頃に入ってから、

  • 筋トレ
  • 睡眠の改善
  • 食生活のさらなる改善

などなど、またコロナ禍の時の「鍛えていた自分」に戻りつつあり、かつ自分と対話をすることも増えてきました。

もしかしたら僕らが生きているこの世界は、僕の妄想なんじゃないか
この後、何かの事故に巻き込まれて命がふっと消えてしまうかもしれないんだよなぁ

などなど。

自分が深く考えているように見せているだけですかね笑。

しかし、そうした「自分との対話時間」は増えてきました。

今日は生活習慣の改善から、自分との対話について書いていきます。

清貧な生活をしていると、自分と話す機会も増えてくる。人生はいつ終わるかわからない。自分と話していこう。

YOLO

以前にも、

人生は一度きりしかない

という記事はいくつか書いています。

タイトルにあるように「YOLO」という言葉は、

You Only Live Once

という言葉の頭文字をとったものであり、

君は人生を一度しか生きられない

というメッセージです。

世界を一周している時に、出会った旅人たちから聞いた言葉でした。

あまりにも当たり前のことであり、誰もが知っていること。

それなのに、多くの人が直視できないままでいます。

かくいう僕も、若い頃は好きなように生きていました。

もちろん今でもそうですし笑、何が正しいということもありませんが、何かこう「適当に生きていた感じ」はしていました。

これは僕自身にしかわからないことであり、みなさんも過去を思い返した時、

あぁ、もうちょっと上手くできたのになぁ

と思っていることはあるでしょう。

生活を清貧なものへと近づけていますと、どんどんこうした感覚が研ぎ澄まされます。

特に空腹の時やサウナでは、そうした “感覚” を経験することができます。

僕らはいつも、

一度きりの人生を生きているのだ

と思うほうがいいです。

すると、今にもっと感謝できますし、

なんでもできる若い頃に、いろいろとやっておいたほうがいい

とも思えるようになります。

人生は一度きり。

しっかりと意識して、毎日を生きていきましょう。

僕らは人生を一度しか生きることができない。それを感じて生きているかどうかで、その人の生き方は変わってくる。

いろんなところで

清貧な生活を再び始めた僕は、サウナもそうですが、

  • 寝る前
  • 筋トレをした後
  • 一人で歩いている時
  • シャワーを浴びた後

などで、少し真剣に、

今、とても幸せだ。また次に進もう

と思うようにしています。

毎日を生きていますと、ふと自分に集中できる瞬間があります。

こういう時間を、僕は積極的に取るようにしています。

悪く言えば「ぼーっとする」という表現なのでしょうけれど笑、

  • 今自分がこの世にいて
  • 友人や家族と会ったりして
  • 日本という素晴らしい国にいて…

という事実を、改めて確認する作業のようなものですね。

これって一見しますと、ちょっとバカげているかもしれません。

それでもいいのです。

僕は今、ちょっとした時間に「生」を感じているのです。

それを繰り返していけば、きっと毎日に感謝できますし、

ちょっとしたイヤなことがあっても、別に大したことじゃないじゃない?

と思えるようにもなります。

人間、どうしても悪いことのほうに意識が向いてしまうものですから、少しでも「良いこと(=日常の当たり前)」に目を向けてもいいですよね。

特に当たり前のように動いているこの心臓の鼓動、そして受けることのできているサービスや繋がっている人間関係などなど。

あぁ、生きてるな

と思える回数は、ふとした瞬間にでも繰り返してゆくべきなのではないのかなと。

「多ければ多いほど良い」と言うつもりはありませんが、最近ではよりその気持ちを強く感じるようになりました。

俺、今日はどうだっただろう?
後悔のない一日だったかなぁ…

何も考えることなく過ごしてしまっていては、それは「忙殺」されているだけであり「今を生きている」とは言えないのかもしれません。

時に仕事や子育てに没頭すること、趣味やエンタメに没頭することも大事なことかと思いますが、あまりにも何かに集中しすぎて、息の付く間もないのはよろしくない。

特に僕は今、たまたま時間のある身ですから、そうやって「考える時間」を大事にしていますね。

一日の中で、自分が生きていると思える瞬間を作っておくことだ。その瞬間瞬間を大切にできている人は、きっと毎日に「生」を感じているはずだ。

本当に考える

さて、僕せいじといえばよく「死」について考えている人間です。

チャーリー・カークさんが亡くなったことを受けて、僕はより毎日を「次の日の保証があるかわからない日」として思い描きながら、生きるようになりました。

父が亡くなった時もそうでしたが、ここ数日もよく、

明日は生きていないかもしれないよな…

と思うようになりました。

決して、「真剣に考えているから偉い」と言っているわけではありません。

人にはそれぞれ真剣に考えるタイミングがありますし、僕は特にここ数年で(世界一周をしたあたりから)、「自分の最期」を意識するようになっただけです。

シャワーを浴びた後なんかもそうですが、

そうか…僕は30年以上も生きることができたのか

と、しみじみと感じたりしています。

この命が尽きた場合、「僕のいない世界」が続くだけであり、50年後に僕が亡くなる未来と比べれば、「寿命で衰弱して亡くなったかどうか」の違いくらいでしょう。

いずれはなくなる身ではありますが、いつ僕がこのブログを終え、朝活を終え、亡くなるかは誰にもわかりません。

というよりもむしろ、実は「僕という存在」はすでになくなっていて、パラレルの世界で生きているのかもしれませんしね笑。

でもどうなるかはわかりませんから、“現世” でやれることはやっておきたいわけです。

そういう意味では、僕はいろいろとやりきったのかなとは思っていますが。

まだまだ自分の事業は始めたばかりですし、当然、この世界をまだまだ思う存分楽しみたいものです。

いずれにせよ、自分のやりたいように過ごしてゆくことが大事なのかなと。

個人事業主としてある程度「自由」をいただき、楽しく過ごしている日々は、何ものにも代え難いものですね。

どんな人生であろうと、僕の命は「あっ」という間に消えてしまう可能性もあります。

ここまで来られたのは奇跡だ

と思っていてもいいでしょう。

時代が時代ならとっくに寿命を迎えていますし、国が国なら、成人する前に亡くなっていてもおかしくありません。

いつでも「今日が最後かもしれない」と思っておくこと。

僕はまだ若い部類かもしれませんが、以前より「本気で」そう思うようにしていますね。

僕は若い頃、そこまで死について真剣に考えていなかった。いろんな人の死を見た上で、今の自分の生についてより真剣に考えるようになったのだ。

おわりに

自分と対話する、一日の中での一瞬のできごと。

でも僕は、その一瞬を結構大事にしています。

毎日を生きるとは、並大抵のことではありません。

それは奇跡であり、ここまで生きられたのは偶然だと思っていても良いです。

今、僕に何ができるのか。

感謝するだけでなく、行動に移していきたいですね。

それではまた!

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