こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
先日、実家に帰りました。
実家に帰りますと、
- 愛
- お金
- 人生
について、家族と話すことが多くなりました。
以前の僕と比べて、考え方や感じ方が180°変わったのは、
- 多くの人と出会い
- たくさんの本を読み
- 様々な場所の景色を見に行った
からでした。
30年以上生きてきましたが、ここまで落ち着いた気持ちになっているのは生まれて初めてです。
今までどれだけトゲトゲしていたのか笑。
今日は「愛の与え方」について語っていきます。
「負」を捨てること
これが僕の出した1つの答えでした。
実家で母と話をしていていますと、
とも言われました。
「愛」については、以前から考えていたものでした。
いわゆる「パートナーを愛す」という恋愛の形ではなく、心の底から人を愛すということについてです。
魔法学校を舞台とした世界的に有名な小説、「ハリー・ポッター」に出てくるダンブルドア校長もこう言っています。
愛じゃよ、ハリー。愛じゃ
ヴォルデモート(いわゆるボスキャラ)が最後にハリーに触れることができなかったのは、ハリーの母親の「愛ゆえ」でした。
「愛」とはとても抽象的なものかもしれませんが、一方でシンプルなものでもあるとも思っています。
若かりし頃の僕は、人を愛すことができませんでした。
- どこか人と比べたり
- 友人の成功を妬んだり
- 人と意見が違えば自分の意見を押し通したり
触れるもの全てを傷つける「思春期ド真ん中」の状態でした笑。
これらの「負の感情」がなくなるという現実は、僕にとっては想像することもできませんでした。
しかし1〜2年をかけて人生について考えたことで、「心に波風が立たない」ようになりました。
「愛がシンプルだ」と思う理由は、
「自己中心的な心を捨て、人を憎むことをやめる」
だけでいいという、それだけのことだからです。
なんという単純さでしょう。
僕はこれができなかったために、人との摩擦が絶えませんでした。
優しい性格の友人を見ては、
と自己嫌悪に陥ってました。
今は小さなプライドを捨てたことで、何を言われてもイラ立ったり怒ったりしなくなりました。
僕が始める順序として大切だったことは、「人を愛す」前に「自分の負の感情を消すこと」だったのです。
心がフラットになれば、もう人を「愛す」準備は整うのですね。
自分の心地良い状態で人を愛す
さて、「愛を与える」とはどういうことでしょうか?
僕は当時、難しく考えていたことがありました。
その「手法」ばかりにこだわり、
- モノ
- お金
- サービス
など、何か形としてGIVEすることが全てなのだと、勘違いしていました。
与えても与えても、どうしても上手くいかない人間関係…
そう気づいた時にはもう手遅れで、知らないうちに溜まっていたストレスや空虚感で心が満たされていました。
「もっと自分が自由で、好きなことをしている状態」
これが、僕の根本になかったのです。
いわゆる「純粋なGIVER(=与え続ける人)」は理想の形ですが、勘違いして与えまくっていてはいけません。
しかも「モノやお金」で解決しようとしていたら、それは最悪のケースです。
自分が心地よく感じることもなく、向こう見ずに与え続けることは真意ではないのですね。
その点を押さえた上で「与えること」ができれば、同時に自分への愛も伴うことができます。
自分も大切にしながら、人を愛すこと。
これができるようになってから、精神的に安定して過ごすことができるようになりました。
そのように考えることもできるようになり、
- 教えることであったり
- 人に会いに行くことであったり
と、自分なりの「与え方」を模索したのでした。
確かに「100%好きなことだけで生きていくこと」は難しいことです。
しかし不可能なことではありません。
まずは、
- 自分の好きなこと
- 心地よくなれること
を、生活の中心に置いてみることです。
そうして自然な形で人のために何かを与え続けていますと、
「自分は好きなことをしていながら、感謝される」
という不思議な現象が起こります笑。
本来はこの感覚を持っておくべきですよね。
まずは自分から。
そうすれば「モノやお金」に頼る必要はなくなり、その人自身が愛されるようになります。
愛を与えるということは、同時に「愛を受け取ること」です。
与え方を間違えてしまいますと、愛を受け取ることができなくなり、行き詰まってしまいます。
「発信する愛」の形を間違えないようにして、
- 自分の負の感情を消し
- 自分も満たされるように
愛を与えてみましょう。
きっと長続きする形になるはずですから。
「愛する」とは「受け入れる」こと
僕が人と衝突していた原因は、
「受容することができなかったこと」
が大きかったと思っています。
「愛」とは与えることのほうを意識してしまうものですが、実際は「受け入れること」でもあると思っています。
もちろん「気が合う合わないに関係なく誰でも愛そう!(=受け入れよう)」というわけではありません。
僕だって、
と思うような「TAKER」や「グチばかり言う人」などにも、何回か出会ってきましたからね。
その線引きは個人的なものでよく、感覚的に合わなければスルーしたり距離をとったりしたって構いません。
「自分の心地良さ」も大切ですからね。
僕はこのような人たちを「受容しすぎる」一方で、成功している人やチヤホヤされている人を「受容しない」という最悪のパターンに陥っていました笑。
なんとも「残念なサイクル」にハマってしまった僕は、なかなかうまくいかない日々が続いたものでした。
しかし、
「愛を与えることは、まず受け入れること」
このことに気がついてから、いろんな人と分け隔てなく話すことができるようになりました。
「与える」という言葉を見ますと、何かアクションを起こさなければならないと思いがちですが、実際その必要はありません。
相手の存在を認め、その場にいることを受容することもまた、愛を与える方法の1つだからです。
ただしそのためには、僕がずっと求めていた「優しい心」を持つ必要がありました。
そこで自分が穏やかになることができてからというもの、人との摩擦は起こらなくなったのです。
職場でも感情的になる人はいますが、僕が同じ土俵に乗らないことで、また僕に話しかけてくれるような、そんな関係を築くこともできました。
不器用な僕はどこか「愛の与え方」ばかりに固執していましたが、今は無理のない範囲で自分らしくいられるようになりました。
自分なりにできることを考え、愛を与える方法を見つけること。
それはすなわち、相手を受け入れていくこと。
その境地にいくためには、常に穏やかでなければいけないのですね。
おわりに
「愛を与える」とは、僕にとって至難の業(わざ)でした。
しかし、自分の負の感情や小さなプライドを捨て去ってから、人を受け入れることができるようになりました。
素直に人を褒められるようになりましたし、自分が誰かのためにできることも見つけられるようになりました。
結果、与えるほど愛を受け取るという事実に気づいた今、とても幸せになりました。
実は「愛すること」は難しいことではなく、シンプルなことです。
相手を受け入れ、相手を思い、自分にできることを精一杯やるだけだからです。
もちろんそこに正解はありませんし、僕の考え方は様々な愛の形のうちの1つに過ぎませんからね。
みなさんはみなさんなりに、自分らしい「愛の与え方」を考えて、与え続ける人になってみてくださいね。
きっと幸せになることができると思います。
それではまた!
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