30代教員が学校とは何かを語る【福祉的存在の先に自分はどうする?】

幸せ

こんばんは。

以前教育について語ったのですが、学校そのものについてや仕事に対する考え方は述べていませんでしたので、ここでお伝えしておこうかなと思います。

果たして今の学校の役割とは。すずきの教師としての役割とは。

迷走中ですが考えたことを整理していきたいと思います。

学校が止まって

今回のコロナで学校が止まってしまった時、家庭では子どもを見きれないものだと、改めて学校の大切さが身にしみた親御さんたちが多かったと思います…

と、いうのはあまりにもありふれたコメントなので却下笑。

では学校とはどのような存在なのか。

僕は先生として生徒がいない学校というのはどこか物寂しいというか、こう張り合いがないというか、つまらないというか。

そんな風に感じましたね。やっぱり対面で会うっていうことの強さを感じました。

家庭という小さな枠から抜け出て学校で第三者たちに会うということは、子どもたちにとっても本当に大切なことだったのだなと思っています。

彼らも上辺では「休みだラッキー」なんて言っていますが、来たくてしょうがなかったオーラがガンガン出ています笑。

とはいえ学校も狭い世界だとは思いますが、家庭だけの世界にいるだけよりは幾分かマシなのかなと思います。(不登校やいじめは横に置いておきます)

理不尽な教師とか同級生・先輩・後輩と会って話したり、体育祭や文化祭、球技大会で盛り上がったり、恋愛をしてみたり、部活動で大会に出て見たり。

いろんな視野を持つことができるのではないのかなと。

様々な議論の的にはなっているものの、やはり先生も生徒もその学校という場を待ち望んでいたのは事実です。

ものすごく乱暴に言ってしまえば学校とは保育園や幼稚園のようなものであり、子どもを預けておける場所だと思っています。

生徒がたとえ中・高校生のような少し大人に近づいている年齢だとしても、です。

ある意味先生たちという「おもり役」がいて、授業という「預かり時間」が確保されているので、親御さんたちも仕事に集中できるわけです。

生徒たちはまだ未成年ですし、親御さんたちが養ってあげていますからね。

そして最も大切なことは、学校で教えているのは勉強だけではないという点です。

ここが「福祉的要素」に大きく関わってくる部分だと思います。

福祉的な側面を持つ

先生たちの役割が福祉的である側面を持つ理由は、彼らに受験勉強の手ほどきや知的能力の向上だけを望まないからです。

人間的に成長してほしいから悩みを聞いてあげたり、生き方を伝えたりするのです。

しかし同時に僕が思うのは「すずきみたいな社会も知らねぇ30代に教わることなんか何もない」ということです泣。

まるで全てを知ったように話す先生たちはどこか滑稽であり、疑念がフツフツと湧いてきます。お前は神なのか。それともブッダなのか、と。

すずきが偉そうにしゃべっていることは、大抵YouTubeや本の受け売りの知識ですごめんなさい笑。

経験がない分、他人の生きた人生から得た教訓を伝えることしかできないのです。

でもそうやってある程度の大人たちから、正解とは言い切れない様々な意見を聞けるのもまたいい環境なのかなと思っています。

他にも先生の役割は、煮え切らない生徒をなだめてあげたり、生きるのがダルそうな生徒にかまってあげたり、間違った行為を叱ってあげたりと様々です。

だから実は授業以外での生徒との関わりが非常に大きな意味を持ってきます。

考えれば考えるほどに、先生という「抽象的かつどこか掴みようのない存在」は、結局はっきりとしていない存在だと思わざるを得ません。

例えばすずきは英語の先生ですが、明らかに英語のスキル以外のことが求められています

僕が自分なりに感じていることは「生徒たちのお兄さん(おじさん?)役になってあげること」です。

英語を教えるのが二の次になることもあります笑。(本音は授業・専門科目が第一だと思っています)

最近の学校現場では数年前に比べて若い先生たちが多く流入してきており、僕らの時代の「先生像」と違って生徒たちも話しやすいのか積極的にコミュニケーションをとっています。

特にネットとSNSの発達のおかげで共有できるツールや情報が多くなりました。

生徒との話題は多様化していますが、ある意味大枠というか、使っているもの(スマホやアプリ)は共通しているのかなと思います。

教科の話題だけではなく、生徒の趣味やトレンド、悩みや雑談など、教員に求められているものは本当に幅広いです。

だからその強さを発揮するのは、先生たちの人間性そのものなのかなと思っています。

教師一人一人が完璧である必要はなく、いろんな考え方を持った先生や様々な年代の先生たちがいることで、生徒たちが触れる”大人”たちにも多様性があって良いのかなと思います。

そう言った意味でも、塾や予備校と大きくかけ離れている存在こそが「学校」なのかなと感じるのです。

自分の教師としての在り方を問う

では僕は何を思って教師になったのか。

そこには数々の数えきれない無数のドラマがありますが、割愛させていただきます。他の記事で書きますのでまた読んでみてください。

僕が教師になった理由の一つに、教えることが好きという理由があります。

至極真っ当な理由なのですが、先ほどの福祉的要素を鑑みた時、一つの疑問が生まれます。

「英語を教えるために先生になったのに、英語以外のことを数多くやってないか」という疑問です。

先生って予備校の先生みたく「授業さえしてればいい存在」ではなかったのか。(失礼)

福祉的要素を併せ持つ「教員」という仕事に、若干のズレを感じ始めた瞬間でした。

(もちろん福祉的側面があるから学校が嫌いだ、という意味ではありません)

一方で僕にはダンスが踊れるという特殊能力(笑)があることで、学校を、先生を楽しめているふしもあります。

毎年文化祭は燃えますし、球技大会も生徒に混じって思いっきり体を動かしています。

すると先生を目指した一つの動機である「あの青春をもう一度」、というサブタイトルさながらの欲求を満たしてくれるのが、他でもない先生業であることにも気づくことができました。

そして「まぁこうして青春も味わえているし、やっぱり先生っていいよな」と腑に落ちてしまうのです。うーん難しい。

ただ、こうした教科性以外のスキル(福祉的要素)や、自分の趣味を活かす形などを考えるほど、今の教員という職に”いい意味で”疑問を抱くようになりました

当時こそ「先生になりたい」とその眩しいほどに若い輝きを放っていた志(こころざし)は今は見る影もなく、くすんで汚れた曇りガラスのようになってしまいました笑。

やっぱりネガティブな側面もどんどん思いついてしまいます。

  • 教員間との摩擦
  • いつまでも変わらない旧態依然のシステム
  • 賛否あるものの部活という存在のプライベートに侵入してくる大胆さ
  • 安定だが変わらない賃金

など、重箱の隅をつつけばキリがないほど、その不満は湧いて出てきてしまいます。

もちろん仕事は楽しいですし、天職だとすら思っています。

生徒と摩擦やすれ違いがありながらも、成長を見届けて卒業させた際には涙で前が見えなくなるほどです。

しかし良くも悪くも、「多様なスキルを先生に必要としている学校」が僕の理想と少しばかりズレているんですよね。

生徒をあずかって、一緒になって青春している時間は何にも代え難いものなのは百も承知なのですが。

最近ビジネス書や自己啓発本を読んだり、YouTubeで経済とかお金の勉強を始めたりしたのも、そうした「疑問の数々」が発端でもありました。

そのおかげで、生徒たちに少し偉そうに語れるようになってるのだから、皮肉なものですけどね笑。

そんな悩める子羊、もとい大ゴリラの今後の動きに期待です。

おわりに

学校の特性とは、コロナを経てその福祉的要素をはらんでいることがさらに浮き彫りになり、それが意味することは教師にその「周辺の力」が求められていることだと思いました。

僕自身はなんだかんだ言って学校が好きです。

英語以外の周辺の力、ドンと来いって感じです。

教員として8年目ですが多くの苦難とストレスを経験したと同時に、数えきれないほどの生徒たちと出会い、その才能や可能性に驚かされ、ともに泣き、ともに笑い、感動の青春を一緒になって駆け抜けてきました。

一方で自分が30代を迎えるにあたって、様々なことをインプットして経験して考えたことで、プライベートでも大きな変化がもたらされ始めました。

すると自分の人生や幸せ、これから挑戦したいことや自分自身への可能性を見つめ直すことができました。

学校の嫌な部分をつついて論じることで「なんか求めていたものと違うな」「だから先生はもういいかな」と、ネガティブな考え方に至るのはよろしくありません。

残された自分の未来や将来に、もっと正直でもっと自由になってもいいんじゃないかなって思っただけなのです。

教育の現場は学校だけではありません。

近い将来、自分がどこか別の場所で教育に関わっている可能性や未来を想像することのほうが、今は楽しくてワクワクしてしまうんですよね。

漫画ワンピースでは、魚人島で主人公ルフィがしらほし姫に対して「ドキドキするならそりゃ冒険だ」と言っていました。

一度しかない人生。

僕は教師としても(もしかしたら別の職種であっても)、もっと挑戦して失敗して、人生をよりよいものにしていきたいと思っています。

それではまた!

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