こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki)
つい先日、教員としてのあり方の概略を記事にしました。
教員として英語を教えていた当時は、
と思っていたものです。
この疑問は今でも持っているものではありますが、ある程度「これだ」という軸はできました。
今日は「いい先生、いい授業」について書いていきます。
自分を確立するのに時間をかける

僕が若かった頃は、あまり「いい先生」とは言えない状態でした。
それは何より、「自分なりの軸」みたいなものが確立しておらず、
だと思われていたからだと思っています。
生徒によって態度を変えたことはありませんが、どこかこう、
という変なプライドがあって、調子に乗っていたのだと思っています。
一方で何も考えてない、そんな感じでした。
これは「一教師として」だけではなく、「一人間(大人)として」も大切なことです。
生徒さんや友人と話をしていても、
- 知識
- 経験
がなければ、ただの “机上の空論” となってしまい、信頼もありません。
だからこそ、
を考えたその数年後のほうが、先生らしい態度をしていましたね。
こればかりは、どうしても時間がかかってしまいます。
本を読み始めた30代前半でも、そこからやっと、
と思わされたくらいですからね。
数年をかけて「軸」を確立していきましたが、今は政治や歴史の知識を入れることに注力しており、正しい知識を持てるように奮闘しています。
英語もまだまだ勉強中ですし、言語学習も食生活も、企業の利権やお金の流れ、経済などもこれから学ぶ必要がありますね。
でもそうして培ってきた「客観的な知識」とは、自分を支える確かな後ろ盾となります。
一見すると教育に関係なさそうですが、自分の「主観的な想い」だけでは教育はできません。
その情熱もまた大切にしつつ、
- データ
- 海外の教育
- 世界で起こっていること
などから、「どういう教育をしていきたいか?」を分析して、自分の教師像を確立することが大事ですね。
相手を一人の人間として見る

自分が確立できたら、「対生徒」ですね。
これもまた時間を要するものであり、
という気持ちだけで、やっていけることではありません。(むしろ僕は対応が下手でしたしね)
経験も必要ですし、先述したように「どういう教師でありたいか?」を自分の中でしっかりと練っておかないと、生徒から見透かされてしまいます。
当時の僕は「若さゆえの良さ/勢い」はあったのですが、その分中身はすっからかん。
うまく生徒と関わることができたのは、4〜5年目くらいからでした。
授業も適当でしたからね。
少しずつ意識が変わってきて、
- 生徒と中立に向き合う
- 保護者と丁寧に向き合う
- 授業は全力で準備をする
というように、「自分のスタイル」も変化させていきました。
単純に、若い時は「全力でやること」が必須でした。
それなのに、
- 授業準備も
- 生徒との付き合い方も
ろくに考えずに、適当にやり過ごしていました。
は大事である一方で、だからと言って「=適当にやればいい」ということでもありません。
生徒としっかりと対話をしなければ、信頼を貯めることはできないからです。
- 高校生だから
- 外国人だから
- 大の大人だから
と言って、何かのレッテル貼りをすることなく、僕は「一人の人間」として接するようになりました。
確かにそれ相応の態度(相手が学生ならタメ口になるなど)には、多少なりともなるかと思いますが、
- 英語を教える
- 人生観について話す
などするのであれば、ちゃんと自分なりの意見を相手に伝え、同時に話を聞くようにしています。
どこかで「自分は先生だから」と思い始めますと、確かな関係を構築することはできません。
全力で準備して、しっかりと生徒と向き合うこと。
これがシンプルではありますが、「いい授業」を生み出してゆくきっかけとなっていきます。
頭は冷静に心は熱く

生徒たちと関わっていますと、時に感情的になってしまいます。
それは現在のオンラインでの指導もそうであり、大人(あるいは友人同士)でも、
と、多少なりとも感情的になることがあります。
結論から言えば、「別にそれでもいい」と思っています。
自分の心の中に「熱い教育観」があればそれでいいですし、熱く語るからこそ伝わることもあるからです。
一方で、
ということでもありません。
先述した通り、
- 知識や経験はあるのか
- 適当にあしらっていないか
- 感情で生徒と対峙していないか
- データなどを参考にできているのか
と疑う必要があるからです。
時に、自分の仕事や教育観を見直しては、多角的なアプローチをとることも大事です。
そうやって柔軟に物事を見られる教育者でいますと、
と思われるようになります。
とまぁ、ただ「熱血教師感」を出しているだけでは、現代の情報社会にいる生徒たちからはすぐに呆れられてしまいます。
乱暴に言えば、生徒を「舐め腐っている」ということですね笑。
と、相手に対してリスペクト(=対等な関係)を示した上で、対話ができるかどうかということ。
そのためには、しっかりと頭の中を冷やした状態にしておき、対話を進めてゆくことです。
- 自分を確立し
- 相手を一人間として見る
- その上で客観的かつ公平な対話をする
広く万人に受ければいいということではありませんが、一方で教育者としてムダにキラわれる必要もありません。
意見が合わないこともありますし、もしかしたら力になれないこともあります。
でも先生(=教師/教育者)とは、生徒を “おんぶにだっこ” する存在ではありませんし、完璧な授業をする人を指すわけでもありません。
その生徒(対大人もそう)を冷静に見て、
と、一相談者や一判走者として “正しく” 付き合ってゆくことです。
教育者として熱い思いは持ちつつも、同時に冷静かつ客観的に対応すること。
僕は長年教育現場にいますが、この距離感を保てなかった時は本当に苦労しました。
参考になれば幸いです。
おわりに
いい先生、いい授業の定義とは曖昧ですが、僕なりに定義づけると上記のような感じですかね。
成長するのにも時間は必要でしたし、
と思っていた時もありました。
当然のことなのですが笑、
- 対応が適当だった
- 全力にやれていなかった
- 客観性や公平性に欠けていた
- 先生というポジションに浮かれていた
このような失敗がありました。
教育者の道とは、なかなか難しく長いものです。
熱いけれども、冷静に落ち着いていること。
いつでも生徒を一人の人間として扱い、対話できるかどうかですね。
それではまた!
