無条件の愛について考えてみよう【主語は「わたし」ではない】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日読了しました、「幸せになる勇気」。

最終章では、「愛」について語られていました。

恋愛に関してはめっきり苦手な僕は、登場人物の「青年」のように、人を愛することを知りませんでした。

いつも「もらうことだけ」を考えていたTAKERであったことは、間違いありません。

結婚していた当初も、

自分が愛されたい

ということを望んでしかいませんでした。

その分、確かに「与える」ことはしていましたが、完全に見返りを求めたGIVEでした。

今日は僕なりの「愛」、それも本書で出てくる「人間愛」について書いていきます。

人を愛することは、「わたし」から自立することである。今愛する人がいれば、その人は自分を消すことができている。

自分を満たそうとすることは支配欲

人間愛」とは「無条件に与える愛」のこととして書かれています。

僕も当時は、パートナーや生徒を心から愛していたと思っていたものですが、それは、

自分が愛されたいがための愛

に他なりませんでした。

「パートナーをアクセサリーのように見なす」

という言葉はよく使われるものですが、僕もそこまでではなくとも、当の意味で人を愛すことを知らなかったため、近い感覚をもっていたと思います。

  • 彼女がいるというステータス
  • 生徒たちに尊敬されている先生という姿

こうした「自分の輝かしい姿」ばかりをイメージし、人と付き合っていました。

自分が愛されたいと思っている間は、「欲しい」というTAKEの気持ちが先走っており、「愛を与えたい」というGIVEの気持ちは後から(しかもちょっとだけ)しか付いてきていませんでした。

しかし「与えること」を意識し始めたことで、「人を愛すこと」に通ずるものを得ることができました。

あぁ、与えるほど自分が満たされていくんだな

そう思い始めてから、どんな人のありのままも受け入れることができるようになりました。

本書には酷(こく)に書かれていますが、「与える前提」のない恋愛は、ただの物欲や所有欲と変わらないと書いてあります。

ただ、今の僕には、その意味がよく分かります。

自分を満たそうとしているときのパートナーへの態度は、

  • 所有している
  • 支配している

という欲を満たしているような態度、と言っても過言ではないからです。

そ、そこまで言わなくても!

と思う方もいるかもしれませんが、欲しいと思っていることは「=支配/所有したいと思うこと」です。

「本当の愛」を求めるためには、そんな考え方ではいけないのですね。

自分を満たしたいと思っている間は、物欲と変わらない。本当の意味での愛ではないのだ。

無条件で愛すことの難しさ

  • 友人
  • 生徒
  • パートナー

無条件で人を愛すということは、本当に難しいことです。

人間はどうしても、周りよりも優位に立つことで満たされる側面があるからです。

未熟で、人の愛し方を知らなかった僕は、どうしてもそのような「上に立ちたいと思う気持ち」から人付き合いを始めていました。

今でもまだまだ勉強中ですけどね笑。

無条件で人を愛すことが、なぜ難しいのか。

答えは簡単です。

相手のことを絶対的に信頼しなければならないからです。

  • 裏切られる可能性
  • 自分が愛されない可能性

という危険性を孕(はら)むため、人は人を愛すことを恐れ、結果的に暴力や支配によって短絡的に目的を達成しようとしてしまいます。

その道は簡単で「楽(ラク)」ではありますが、もちろん本当の愛を育むことはできません。

だから僕のやるべきことは、何が起こっても相手を愛すことなのだということを学びました。

これだけやっているのになんで…

結婚当初は、幾度となくそう思っていたものでした。

自分を被害者に仕立て上げ、自分が満たされないことへの不満であふれていました。

それでは相手だって、

「お返し」を求めてのGIVEだ

と気づくに決まっています。

しかし、ひとたび「お返し」を求めなくなると、驚くほど幸せになることができます。

「自分が満たされないこと」に、注意が向かなくなるからです。

相手が自分のことを愛してくれるかどうか。

これは相手の課題であり、僕がどうこうできることではありません。

そのことがわかるだけでも、自分が愛を与えることに抵抗がなくなってきます。

完璧ではありませんが、僕は少しずつ「本当に人を愛すること」を学ぶようになりました。

人を無条件に愛することは怖い。見返りがないかもしれないからだ。しかし見返りを求めなくなれば、本当の意味で人に愛を与えることができる。

主語を「わたし」から変えること

いつも自分を中心に生きること。

これは幼い新生児だけに許される特権だと、本書には書いてありました。

しかし実は、大人になっても泣いたりわめいたりすることで、

自分に構ってほしい!自分を助けて欲しい!

と、主張する人がいるというのです。

以前の僕もそうでした。

だからそれは、本当の意味での「自立」ではないのです。

「ずっと新生児のままだ」ということなのです。

その状態から脱するには、一体何が必要なのか。

本書には、

主語を『わたし』から『わたしたち』に変えること

と書いてあります。

これには僕も納得でした。

わたし、わたし!

自己中心的な愛を求めている人は、いつまでも満たされることはありません。

本書は「パートナーと二人で」と書いてありましたが、今の僕はもっと広義での「わたしたち」の目線を持つようになりました。

世界に存在する人々を、分け隔てなく愛すること。

そうやって、みんなで愛を紡(つむ)いでいくこと。

そのためには、まず自分の周りにいる近くの人々から愛すること。

まずは隣人から、ですね。

こうして「わたし/自分」を消すことによって、

  • 無条件で
  • 一方的に

「与える愛」を理解することが(少しだけ)できました。

僕がこれからやっていくべきことは、「わたし」という主語を消して人を愛することです。

少しずつですが、そのカタチに近い「愛」を与えられるようになって、以前よりも満たされるようになりました。

  • いつか出会うパートナーがいたとしても
  • 教える立場になるような生徒と出会ったとしても

変わらない愛を持って、接していきたいと思っています。

「わたし」という主語を消し、「わたしたち」で愛を造っていこう。それがこれからの課題だ。

おわりに

「愛」について語ろうとすると、どこか恥ずかしさを感じてしまう人がいると、本書には書いてありました。

僕も恥ずかしいわけではありませんが、「本当の愛の意味」についてはあまり書いてきたことがありませんでした。

最近は、

深い愛とはなんだろう?

と、また偉人の気持ちを考えていましたが、最近の思考と本書の内容がマッチしていたため、驚くと同時に温かい気持ちになりました。

人を愛するとは、並大抵のことではありません。

とはいえ、

  • 一過性のものだとか
  • 恋愛が安いものだとか

そういうことは言いません。

僕自身も痛みを伴ったことで、知ることができた部分もあるからです。

だから、愛することを知らなかった頃の自分と比べると今のほうが、人のことを本当の意味で愛すことができそうです。

まだまだ人生これから。

もっともっと、無条件の愛を与えられる人になっていきたいと思います。

それではまた!

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