日本に帰る前も帰ってきた後も僕は忖度をしない【日本にハマらない】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

先日、友人と話していた中で、

僕はもう忖度できなくなりましたねー

という話をしました。(と言うより昔から)

僕は学生時代、とてもイヤな生徒でして笑、先生たちの揚げ足をとっては、世の中の不満に対してちゃんと意見言っていたものでした。

クラスでは陰キャでしたが、気に入らない陽キャをサッカーの授業中にフィジカルで潰しにかかったこともあります笑。(マジでやばいやつ)

今は落ち着きましたが(ほっ)、だからこそこうしてブログで意見を綴っているのかもしれませんね。

今日は「いつもしっかりと忖度なんてしなくていい」ということについて書いていきます。

日本の行間の読める文化は素晴らしい。でもいつも忖度して生きる必要はない。

昔から忖度はしていない

僕が学生時代の頃は、「学生」という地位を武器に先生に食ってかかっていたものでした。

当時は若い先生も少なく、みんな単純に「教え方が上手い先生」についていっていました。

ある意味今の学校のほうが、若い先生たちの流入も多いため、

生徒と先生ってこんなに仲良くなれるもんなんだなぁ

と思う毎日です。

僕は学生時代の頃から「忖度すること」がとても嫌いで(ニガテで)、表面上の付き合いは特に嫌いでした。

遠足などもできれば一人で行きたかったのですが、

グループを組め

と言われてイヤイヤ組んだものでした。

今思い返せば、いわゆる「日本の文化」に合っていなかった人間だったのだなと、そう思っています。

でも僕は、この姿勢って日本人に必要な姿勢だとも思っています。

「ところ構わず当たり散らす」という意味ではなくて、

このままじゃおかしい

と、大きな権力や社会通念に対して疑問を持ち、それに対して常に問い続けるような、そんな姿勢ですかね。

  • 相手の気持ちを尊重し
  • 社会にはびこる行間を読む

という日本人の気質は、それはそれで社会形成の一端を担ってきましたから、否定されるものでもありません。

それでも、

もっと柔軟になっていい
もっと空気なんて読まなくていい

ということです。

本当はそう思っている学生や若い人、あるいは大人たちだっているはずです。

  • 年齢
  • 地位
  • 立場

を振りかざしてくる人なんて、弱い人間でしかありません。

その人を尊敬するかどうかは「受け取る側」が決めることであり、最初から偉い人なんていません。

僕がそうなってしまった時は、人生終わりでしょうね笑。

人の気持ちを読めることは素晴らしいことですが、それありきの文化はもうやめていきましょう。

僕は昔から忖度なんてしていなかった。人の気持ちが読めることと、それに合わせることは全くの別物だ。

日本の悪しき文化に振り回されない

空気が読めない

いつからか、こんな言葉が流行り始めました。

僕も先生をしていた頃は、授業内で流れを無視してガンガン質問してきたりと、いわゆる「ヘン」な生徒なんてたくさんいました。

もちろん僕も、コミュニケーションにおいてはかなり経験を積んだほうですから、

そこはちゃうやろ

と思うことはありましたね。

「空気が読めないこと」は決して「絶対の悪」ではないのですが、それと「コミュニケーションの能力」は異なります。

僕は「空気を読まない」ような人間であるとはいえ、

自分が目立つべきところではない

と感じた時には、

  • じっと聴く側に回ったり
  • コメント欄で意見を述べたり

するなど、その場の大切な「空気感」を保つように心がけています。(先生でしたので)

つまり「空気を読まない」ということは、

  • わめき散らかしていい
  • ネガティブや文句を言っていい
  • 自分の意見を延々と述べていい

というわけではなく、それらはシンプルに「害/コミュ力不足」なだけなのです。

一方で、人との関わりにおいて、

  • こうすべき
  • 尊重しましょう

みたいな、いわゆる「空気を読みましょう/忖度しましょう」みたいな風潮は大っ嫌いなわけです笑。(難しい…)

それぞれの「言い方」はもちろん大事ですし、僕も学生時代の時のように言いたいことを言うような感じではありませんから笑、その上でちゃんと意見を述べることが大切なのかなと。

概ね、”日本の文化” はあまり好きではありません笑。

忖度したり空気を読んだりしてストレスが溜まるのは、他ならぬ「自分」ですからね。

その上で、

  • 言い方
  • 言葉選び

に気をつけながら、慣習にとらわれずに生きていきましょう。

忖度する文化はいいことだが、だからと言って自分を押し殺していいわけではない。

人を尊重しつつ自分らしく生きよう

大切なのは相手を尊重する姿勢であり、僕は何も「忖度は絶対しない」という派閥ではありません笑。

でも今を生きるインフルエンサーたちの言動を見ていますと、スッキリすると言いますか笑、

自分の言いたいことを言っていて、反論があっても気にもしてなさそうだな

と思わせてくれます。

言論の自由はありますから、個人的にも、

自分の好きなように意見を言ってもいい時代

だと思っています。

ただしそこには、

  • 尊重
  • モラル

などが介在しており、本当の意味での「自由ではない」ということも、理解しておかなければなりません。

それと同時に、年齢やポジションにとらわれることなく、「堂々と自分の意見を言うこと」は大切なことです。

日本の社会がそうなってくれればいいのですが、少しずつ変わりつつも、まだまだ時間はかかりそうですね。

特に “上の世代” が “下の世代” に指摘された時に、カッとしないことです笑。

教員時代は「歯に衣着せぬ生徒」の意見に、いちいち感情的になっていた先生が多かったものです。

何を隠そう、僕も「煽られたらついカッとなっていた」教員でした笑。

みんなもっと寛容になれば良いのですが、今の日本はとてもしんどそうで、人に優しくなれない理由もなんとなくわかります。

個人レベルでできることといえば、そうして自分を押し殺すことなく、あるがままに生きることなのではないでしょうかね。

若い頃から僕は、「相手を忖度して合わせること」なんてほとんどありませんでした。

  1. 相手の気持ちを理解しつつも
  2. 「自分はこう思う」とはっきり伝える

この姿勢を持っていれば、乱暴に発言していることにはなりません。

相手を変えたいわけでもありませんし、自分の意見を押し通したいわけでもありません。

ただ、

空気を読まなきゃ…

と、息苦しく生きていたくないだけなのです。

「絶対に忖度しなきゃいけない」なんてことはありません。

相手の気持ちを推し量った上で、

  • 自分の意見を述べること
  • 自分らしく生きていくこと

は素晴らしいことなのですから。

忖度はほどほどにして、自分らしく生きていこう。

おわりに

僕は昔っから「はっきりと意見を言うこと」が好きでした。

時に、

  1. 敵を作り
  2. 嫌われも

しました。

が、それは決して僕が悪口を言ったり、ただただ不愉快なことを言ったからではありません。

こうじゃないのか?

という僕の意見を、真正面から受け止めることのできない人たちからの、せめてもの反撃だったのだと思っています笑。(そう信じたい)

会議や話し合いは、生産的であったほうがいいと思っていましたしね。

それで嫌われる理由が、全くと言っていいほどわかりませんでした。

僕はそれでも諦めずに、淡々と同じことを繰り返し言いましたね笑。

そこで周りに流されていたら、今の僕になることはなかったでしょう。

人を尊重しつつも、ありのままに自分らしく生きていきましょう。

それではまた!

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