30代教員が偉そうに後進教育をして感じたこと【実は先生も生徒】

人間関係

こんにちは。せいじです。(@seiz_suzuki

今日はオンライン授業について、英語科でいろいろと議論していました。

そんな時、自宅からテレワークしている同僚から、

Googleでフォームを作ってみました

という、グループLINEのメッセージが届きました。

僕は体育館でダンスの練習していたのですが、早々に英語科の後輩がグループにメッセージを送ってきました。

それは役に立たないと思います

と。

背筋が凍りました笑。

(なんてこと言うんだバカヤロー!)

僕は速攻でフォローに入り、

や、やってみる価値はあると思います!

とメッセージを送ったのですが、「これは後輩のアクションがよろしくなかった」と思ったため、注意することにしました。

帰り際にその後輩教師を呼びつけて、みっちり1時間話し込んでしまったというわけです。

こわいですよね笑。

僕の若かりし頃の体験談も交えて、今日はその時に感じたことをお話しします。

自分の足りなさに気づけるのは自分だけだ。それに気づけるまで、指導を続けていこう。

以前の自分と重なる部分

職場にも若い世代が入ってきていて、多くの子たちがその「エネルギー」をうまく使いこなせている中、英語科の後輩はどこか斜(しゃ)に構えており、先輩教師の指導や指摘に毎回首をかしげていました。

今回も1つの事例でして、なかなか怒らないことで有名なあの僕が、あろうことかその後輩を呼び出して、

さっきのLINE、あれ良くないよ

と指摘するに至りました。

なんて珍しいことでしょう。

すずきさんに呼び出されるなんて、ただごとではない

と察した後輩は、きちんと椅子に座って話を聞いていました。

若い頃はどうしてもプライドが邪魔をし、自分の指導方針や学んできたことを盲目的に信仰してしまうものです。

僕も以前はそうでして、「院卒」というクソの役にも立たない肩書きを胸に、堂々と通勤していたことを覚えています。

実際「現場での感覚」というものは、ベテランの先生のほうが研ぎ澄まされているものです。

なぜか、

知識武装している自分のほうが、先輩教師たちよりもできるはずだ

と、勘違いしていた以前の自分でしたが、まったく恥ずかしいものでした。

今思い返してみても、僕の授業は「ボロクソ」でした。

3〜4年かけてようやく形ができてきて、「まぁ良いものになったかな」というレベルです。

この後輩も「自分に自信がなくて…」と謙虚に言っているのですが、助言や指導をメモしている感じはなく(メモすることが正義とは言いませんが)、

本当に改善する気があるのかな?

と勘ぐってしまうほどでした。

ただ、こればかりは「自分で気づく」以外に解決策はありません

僕自身が過去に経験しているため、わかるのです。

「性格の根っこの部分」というものは、他人がどうこうできることではないのです。

僕も、多くの先生に指導されては反抗していましたしね。

それがどこかで、突然カチッと変わる瞬間があるんですよね。

その経験があったことで、今の自分がいるのだと感じており、先輩教師たちには本当に感謝しています。

若い時はプライドもあり、自分の力量を過信するものだ。どこかで気づかない限り、一生変わることはできない。

変わることができるのは自分から

後輩といえど「20代の大人」です。

淡々と指導をしている途中から、

あれ?この指導の仕方って、生徒に対するそれと一緒だよな…

と思い始めてしまいました。

誤解を恐れずに言いますと、「自分の言葉や投げかけで、他人は変わるものではない」ということを、僕は信じています。

「では、なぜ話すのか」という疑問が生まれると思います。

僕は、

  • 相手を変えよう
  • 相手に変わってほしい

と思って話していないのです。

英語科としては「ワンチーム」ですので、放っておけばいいということにはなりません。

だから根気強く指導はしていくものの、やはり最終的にたどり着くところは、本人が自分の中で変わろうと思えるかどうかだと思うのです。

そこまでは、言い続けることで何かのきっかけを与えるくらいの、「わずかな手助け」程度しかできないのかなと思っています。

実は「生徒に対する教育」でも、同じようなことが言えます。

先生たちが「この子を変えてあげたい」と思い、サポートに徹するのはとてもいいことです。

しかし、最終的に「先生のおかげです」と言われてしまうことで、先生たちが勘違いをしてしまうこともよくあります。

おぉ、自分には人を変える力があるのだ!

と笑。

その生徒が変われたのは、確かにその先生が「一役買った可能性」もあるかもしれません。

でも、

  1. 何かに気づいて変わる決断をし
  2. そこから自分なりに努力を始めた

のは、当の本人以外あり得ないのです。

後輩や生徒に言い続けて指導する時は、

  • 明日
  • 明後日
  • 数ヶ月後

に改善していることを、決して願ったり信じたりする必要はないと思っています。

勝手に過度な期待を抱き、結果的に変わっていない本人を目の前に落胆するのは、正直なところ「おかしな話」です。

彼らには、ずっと言い続けなければ意味がないのです。

するとどこかで、ある「変わる瞬間」にきっと出会うことができます。

もちろん、

  • 長い間
  • あるいは一生

気づけないかもしれないでしょう。

「何かが変わる時」というのは、本人の中で「閃光のように瞬間的に光るもの」と出会う時だからです。

それに気づいて掴むことができたら、ラッキーなほうなのかなと思っています。

指導された最後に、結局自分を変えることができるのは、自分だけなのだ。

なぜ指導を続けるのか

後輩は「生徒」と少し違ったポジションですが、先ほど述べた通りチームの一員であると感じていることが多いです。

一緒に何年も英語を教えていく仲間ですし、来年(2022年)その後輩は「担任を持つこと」にもなっています。

組織とはチームとしてやっていくものですから、多くの生徒を相手にするのならば、複数の先生が協力できるほうが圧倒的に「良い組織(チーム)」です。

うまくコミュニケーションが取れておらず、連携がままならないのであれば、その「ほつれた部分」から組織は大きく崩れていくことになるでしょう。

だからこそ助け合ってサポートし合うことが、チームのあるべき姿だと思います。

その人の考え方や性格を変えることが困難だとしても、「お互い支え合っていくこと」はできるはずです。

僕も倒れた時は助けてもらいましたし、「鼻垂れイキり小僧」だった時ですら笑、周りの多くの先生方が諦めずにサポートに回ってくださいました。

新人や新参者は、誰しもが「その組織でいきなり使える人材」とは限りません。

だから僕は、生徒を見守るような形で、

こういう時はこう動いたほうがいいよ

と言い続けることにしています。

「変わってくれるかどうか」という結果を期待せず、その都度サポートに入る姿勢を持ち続けていきたいですね。

チームとして若者たちの穴をフォローする努力をしよう。それが組織のあるべき姿だ。

おわりに

後輩と話していて思ったことは、

  • いくら情熱的になっても
  • いくら冷静に落ち着いて話しても

あまり伝わらないのだろうなということでした。

大切なのはそんなことよりも、本人に刺激をたくさん与えて考えさせて、気づくきっかけを見つけ出してもらうことなのかなと思いました。

その後輩教師は、

  • まだ腑に落ちていない部分を考え直したり
  • もっと考えていかなければいけないことがあったり

することでしょう。

それは、

  • 何年もかかることかもしれませんし
  • もしかしたら明日「パッ!」と感じることなのかもしれません

僕自身は、気付けただけでもラッキーなほうでした。

自分がこうして、

偉そうにしゃべれるほど、今も頑張れているのか?

と思うことも大切なことですよね。

指導にあたる時は自戒の念も込めて、言葉1つ1つに気をつけなければいけないと思っています。

僕自身も精進しなければなりませんからね。

それではまた!

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