こんにちは。すずきです。(@seiz_suzuki)
- 1日の自分に残された時間が少ないと感じ始めたこと
- 仕事の合間の時間や雑務の時間がもったいないこと
によって、「自分の時間単価はどれくらいなのだろうか?」と思ったことがありました。
以前にも、
「なんでもかんでも安く済ませようとすることは、結果的に自分も安く買い叩かれることとなる」
という主旨の記事を書いてきました。
- 同じサービスや商品の安いほうを選ぶ。
- 結果的に安いもので生活する。
ということは大切だと思います。
しかし一方で、みなさんは自分自身を安く売っていると思ったことはありませんか。
今日は、
- 自分の時間単価
- もっと自分を大切にすること
について書いていきます。
自分の時間単価の計算をしてみよう
仮に自分の給料が、手取り月20万円ほどだとしましょう。
平日に働くとしまして、月〜金で5日間 × 4週で1ヶ月分と仮定します。
20万 ÷ 20日 = 1万円/1日
なんとこの時点で日給1万円…これをどう捉えるかですね。
1日あたり9時間働く(休憩はありますが、拘束時間と考えます)として、
1万円 ÷ 9時間 = 1,111円/時…
むむむ。
ちょっとこれは考えてしまいますね。
さらにここに、
- 通勤時間
- 残業
- 雑務
などが入ると考慮しますと、実際はもっともっと拘束時間が長いため、どんどん「時給」は安く計算されることになります。
いかがでしょうか。
以前、自分でこうした計算をしてみた時に、
「僕には、この時間でもっとできる仕事があるはずだ」
と感じたことがありました。
それは、
- 傲慢であるとか
- 自信があるとか
- 組織がダメだとか
そう言うことを言いたいのではなくて、自分にはもっと価値があるはずだと思っているのです。
長らく日本に住んでいますと、そうした発想は煙たがられ、
- 「偉そうなことを言うな」
- 「身の丈に合っているじゃないか」
- 「我慢しろ」
という声が飛んできます。
上記の計算は仮のものではありますが、時給1,000円程度と考えた時に、みなさんはどう思うでしょうか。
僕は、あまり納得できませんでした。
特に学校で働いていますと、
- 資料を印刷する無駄な時間
- 報告だけの会議
- ただ拘束されているだけで向上しない組織
など、
「この時間で、もっともっと組織をよくできるだろ?」
と思うことがあります笑。
それは学校に限ったことではなく、多くの会社の人々が感じていることでしょう。
結局、コロナ禍の空き時間を自己研鑽(けんさん)の時間として、バカみたいに英語を勉強したこともありました笑。
自分の人生は、自分の時間は、タダではない。
自分の知識や経験、スキルを活かして行なうサービスであれば、それはきっと価値のあるものですし、その時間はもっと意味のある時間になるはずです。
みなさんが働いている時間の1分1秒が、「=価値のある時間」になっているわけではありません。
そこには、
- ただ拘束されている時間
- 遠回りで無駄な時間
もあるのではないでしょうか。
みなさんの人生も、時間も、タダではありません。
僕は友人たちに会うたびに、彼らはもっと価値のある存在ではないのかと思うことがありますね。
勤務時間の全てが悪いわけではない
僕は先生という職業が好きですが、一方でこの職は、先ほどあげたような無駄な時間のオンパレードです笑。
ただ、だからこそ楽しい面や救われる面もあるため、「すべてを否定すればいい」というわけではありません。
確かに、勤務中の拘束時間や無駄な時間、通勤時間などを考えてしまいますと、自分の時間単価はどんどん下がってしまいます。
しかし拘束時間の中にも、ちょっとしたバッファ(余白)があれば、その働き方は意外にも心地いいものになるのかもしれません。
- 一息つける時間がある。
- 雑談できる時間がある。
- 生徒と楽しむ時間がある。
特に「先生業」は時間単価の計算をし始めますと、職業の本質とズレてしまう部分もあり、
- 「じゃあ予備校の先生にでもなれよ」
- 「オンライン英会話の先生をやれよ」
- 「ダンスのインストラクターにでもなれ」
と言われてしまうのがオチです。
拘束時間の中にも、無駄な時間と思われている時間が、
- 生徒にとって必要なガス抜きの時間であったり、
- 先生たちのための余白になっていたり
しますので、一部分を切り取って「悪い」「無駄」と捉えることはできないのです。
こうした事実と、先ほどの「ざっくりとした時間単価」を鑑(かんが)みて、今の仕事や働き方について結論を出す必要があります。
僕は教師という職業の、こうしたバッファの時間が好きでもありますし、時には生徒たちが泣きながら3時間話し合うのに、付き合ったことだってあります。(※休日です)
ただし、その時間を正義としてしまうこともまた良くない考え方です。
教師として生徒の悩みやいざこざを看過することはできませんが、自分自身の時間も全て投げ打っているようでは、結果的に自分が崩れてしまいかねません。
あくまで一教師の例ですが、みなさんの中にも「行き過ぎた犠牲」があるかどうかは、今一度考えてみる必要があると思っています。
自分を大切にする勇気
先ほども少し触れましたが、
- 我慢すべきだ
- 仕方のないことだ
- そういうものだ
という考え方は、僕は好きではありません。
誰かのために割く時間は「自分の時間」でもありますから、しっかりと自分と向き合って大切にすべきだと思います。
ただし、これもまた極端に行き過ぎてはよくありません。
- 生徒の相談に乗る時間
- 友人と会う時間
- 他の部署や他社のために割く時間
この全てを「ダメだ」というのではなくて、自分で考えた上で「意味のある時間なのだ」と思えていれば、人のために割く時間も幸せですし、無形・無償でも価値のある時間です。
いつでもバランス感覚は大切であり、この感覚がバグっていますと笑、
- 他者との繋がりが断たれたり、
- 自分自身の身を滅ぼしたり
してしまうことでしょう。
先生は生徒との信頼関係の構築も大切ですし、「人と人との関係」は時間をかけて育てていくものです。
そうした「感情」や「アナログ的な要素」も加味した上で、今一度「自分」に目線を向けてみましょう。
- 「今の自分がしんどい状態ではないか?」
- 「安く買い叩かれていないか?」
- 「義務的に仕事に従事していないか?」
いろいろとあげられることがあるかと思います。
そんな自分を見直すことができるのは、もちろん自分だけです。
- 自分にはもっと価値がある。
- 自分はもっとできる。
- 自分はもっと大切な存在である。
と考えることは、ちょっとワガママで、横柄な態度をとっているように聞こえるかもしれません。
しかし僕は、声を大にして言いたい。
「自分を大切にする勇気を、持って欲しい」
と。
僕自身にも言えることだと思っているからこそ、言うのです。
時間は有限であるはずなのに、今までの僕は、「時間」について一切の注意を払ってきませんでした。
お金は目に見えるのでわかりやすいものですが、時間はジワジワとボディブローのように効いてきますし、いつか訪れる「死」はひっそりと、足音を立てずに背後から近づいてきます。
逆に言えばその時間を利用することで、効いてくる「複利」もあります。
自分の時間を大切にできる人は、他人との時間にも価値を生み出します。
その時間を「最大限に良いものにしようとする」からです。
自分と他人、どちらが先かは「鶏か卵か」になってしまいますが、人との時間を大切にすることで、また自分自身を大切にしていることにもなりますから、好循環が生まれることは間違いありません。
「自分には価値がある」ということを自覚することで、本当の意味で他者との時間を楽しむことができるのでしょう。
僕自身も今一度、
- 自分の時間
- 自分の価値
を見直して、自分自身も、友人との貴重な時間も、大切にしていこうと思っています。
おわりに
先生は特に「自己犠牲」の場面が多く見られる職業です。
上の記事は友人と話したことを記事にしたものですが、「自己犠牲なんてクソ喰らえ」には笑いました。(そこまでは言っていない笑)
仮に「意味のある、価値のある自己犠牲」とでも呼ぶものがあれば、それはもはや自己犠牲ではありません。
「自分にとって価値のある時間」だからです。
- 相手のために尽くす時間
- 相手のために払うお金
も、自分の幸せに直結する経験となりますし、僕はこの1年で多く感じることができました。
改めて自分の人生や時間、自分の持っている人柄やスキルを大切にして、
「自分はタダではない」
と感じてみてください。
働き方や仕事、友人との関係について、再び考える良い機会となると信じています。
それではまた!
コメント